ゴヤの頭蓋骨の行方は? サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会

数奇な人生を送った画家 フランシスコ・デ・ゴヤの生涯については、多く語られていますが、亡くなった後も興味深いゴヤのお話です。

Francisco Goya, Public domain, via Wikimedia Commons
ゴヤ 自画像 (1815年)
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ゴヤが亡くなったのは

ゴヤは1828年、画家が82歳の時 フランスのボルドーで亡くなりました。
スペインでの晩年のゴヤは、聴覚を失い、マドリード郊外の家で有名な「黒い絵」シリーズを手掛けました。

スペイン国内は、ナポレオン支配下におかれた時代から、その後の絶対王政復活などで揺れていて、自由、解放主義者への弾圧もあり、1824年ゴヤは、スペインを離れフランスのボルドーへと亡命しました。

『ボルドーのミルク売り』(ゴヤの遺作?1827年)
Francisco Goya, Public domain, via Wikimedia Commons 
ボルドーのミルク売り

この作品は、ゴヤがボルドーで亡くなる前に描いたもので、ゴヤの遺作としてプラド美術館に展示中の作品です。

フランスに亡命する前に描いていたのが、「黒い絵」シリーズなので、その後数年の間に、ずいぶん精神状態が落ち着て、最期にはまた穏やかな作品を描いていたのですね。≪参照 ≫「黒い絵」ゴヤ どうやって壁から移動させたか プラド美術館

なのですが、この作品、イギリスの学者をはじめ数名の研究者たちが、「この絵はゴヤの絵ではありえない」と言う論文などを発表しています。

今のところプラド美術館では、”作者ゴヤ” で展示中ですが、「そのうちやっぱり違いました」と見解が変わるかもしれません。

ちなみにこちも・・・『巨人』(1808~1812年頃)

Follower of Francisco Goya, Public domain, via Wikimedia Commons
巨人 (ゴヤの弟子の作品?)1818~1825年頃

こちらは、同じように「ゴヤの絵ではない」という事で調査の結果、2009年に「違いました」とプラド美術館が認めました。ゴヤの物ではないいくつものポイントがあげられるのですが、最終的には別人のサインが発見され、ゴヤの弟子のアセンシオ・フリアのものであろうという事になっています。

ゴヤのお墓にゴヤの頭はなかった⁉

そのゴヤですが、亡命先のボルドーで亡くなり埋葬されました。

それから約50年後、1880年当時のスペイン領事が、ボルドーで奥様のお墓参りに行かれた時、偶然に発見したのがゴヤと、友人マルティン・ミゲル・ゴイコエチェア( ゴヤの息子の奥さんの父親)のお墓でした。

最終的にはスペインに遺骨を移しましょうということで、お墓を開けてみたら、なんと なぜか頭蓋骨がなかったんだそうです。

骨相学?

お墓を開けると中には、頭蓋骨以外の遺骨と、ゴヤご愛用の茶色のシルクの帽子がありました。

当時ヨーロッパでは、骨相学なるものが流行っていて、

【骨相学】頭の大きさや形で、知能や、性格、行動傾向などが推定できるという、19世紀に欧米で流行った研究。無名の一般人の頭でも実験を行ったが、特に著名で優秀な人たちの頭は貴重な実験対象とされた。

頭蓋骨がなかった理由は、

骨相学の研究グループに盗まれてしまった

ゴヤには骨相学の研究をしていた知人(Jule Laffargueという人)がいたそうで、生前ゴヤは、自分の頭は骨相学の研究に使うよう許可していて、その友人が持っていった

1849年にフィエロスという画家が「ヴァニタス」という絵を描いていて、その絵の裏側に、「フィエロスによって描かれたゴヤの頭蓋骨」と記述が残っていて、おそらく画家もしくはこの絵を注文したサン・アドリアン伯爵の関係者が盗んだ

他にもいくつか説はあるようですが、実際のところどれも決め手はなく、いまだに理由はわからず、頭蓋骨も行方不明のままです。

Dionisio Fierros, Vanitas, 1849 Museo de Zaragoza  Dominio Público
ヴァニタス フィエロス

1918年、サラゴサの骨董品の店で発見されたこの絵は、のちにサラゴサの博物館に寄贈されました。(ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画)

スペインに戻ったのは1899年

戻って来た時に準備されていたのは、マドリードのサン・イシードロ墓地内の霊廟、ゴヤと同じようにフランスに亡命して亡くなった当時の政治家や著名人との共同霊廟(4名)で、ここに1919年まで埋葬されていました。

Barcex, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via
Wikimedia Commons ゴヤ 他3人の霊廟

この霊廟の彫刻を担当したのは、スペイン人彫刻家リカルド・ベルバー、レティーロ公園内に設置されている【堕天使 Angel caido】の作者です。≪参照 ≫ マドリードの天使たち(彫刻)

その後もう少し静かで、画家にも関係のあるところでという事で、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会に遺骨は移されました。この建物は、18世紀の初めの当時の国王カルロス4世によって建てられた小さな教会で、内部のフレスコ画は、1792年~1798年に、ゴヤとその弟子アセンシオ・フリアによって描かれたものです。(内部見学無料です)

J.L. de Diego, Public domain, via Wikimedia Commonsサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会があるのは、プリンシペ・ピオという地区で、ゴヤの作品の中でも画家の気持ちが特に込められた『1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)』の舞台となったのがこの地区でした。

Francisco Goya, Public domain, via Wikimedia Commons ゴヤ 1808年5月3日

 

まさか、自分が描いたフレスコ画の真下に、そして、ゴヤによって後世まで伝えられる事にもなる、勇敢な マドリード市民の銃殺刑の舞台 となった場所の近くに 埋葬されることになるとは、ゴヤ本人も夢にも思わなかったことでしょう。

今もそこに、(頭蓋骨はないまま)ゴヤは眠っています。

José Luis Filpo Cabana, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons ゴヤのお墓