世界一小さな共同統治領 フェザント島
スペインとフランスの国境は、カンタブリア海の港町、スペイン側から見るとスペインの北東部オンダリビア(Hondarribia)の街、フランス側から見るとフランスの南東部アンダイエ(Hendaye)の街から始まり、ピレネー山脈を間に国境線は東側へ、途中アンドラ(Andorra)という小さな国でいったん国境線は途切れ、アンドラを過ぎるとまた国境は続き、最終的には地中海まで、距離にすると約650㎞におよんでいます。
カンタブリア海側の国境線は、途中ピレネー山脈からビダソアという川に移り、この川を国境線としているのですが、ビダソア川がカンタブリア海に流れ込むちょっと手前に、小さな川中島があります。
この島の名前がフェザント島(Isla de los faisanes イスラ デ ロス ファイサネス)、一年の半分はスペイン、半分はフランスが管理する、世界一小さな共同統治領です。
2月1日から7月31日まではスペイン、8月1日から1月31日まではフランス管轄、これを1856年から今日まで続けてきました。
17世紀のヨーロッパ
この小さな島は、スペインとフランスの歴史、またそこから広がるヨーロッパの歴史の舞台として何度も大事な役割を果たしてきた島です。
ピレネー条約調印の舞台
16世紀のはじめに始まった宗教改革。
バチカン中央政権や、免罪符の購入強制への不満、聖書をラテン語から他国語へ翻訳することによって、聖職者以外の人も、聖書を理解できるようになっていった等々の理由で始まった改革は、どんどん大きくなり、17世紀にはいると宗教戦争(30年戦争)に発展していきました。
初めは神聖ローマ帝国領土内のカトリック VS プロテスタントの闘いだったのが、次第にそれ以外の国も巻き込んで、ヨーロッパ全体に広がっていきました。
そしてこの宗教戦争のもう一つの鍵は、最終的にはヨーロッパの政権の優位性を主張がする、フランスとスペインの権力争いに発展してしまったことです。
フランスもカトリックの国ですが、宗教とは直接関係のない、いろんな国の政治的な思惑があり、その結果がフランス・スペイン戦争(1635年~1659年)へと展開し、この戦争の終結のための条約がピレネー条約で、1659年11月7日に結ばれました。
そして、その調印のための場所として使われたのが、フェザント島です。
政略結婚
スペインとフランスは、歴史の中で何度も領土問題、権力争いでもめました。
その解決策として使われた方法のひとつは、王家間の政略結婚。王家では、跡継ぎとなる男子を生むことも大事でしたが、国をつなぐお姫様たちの役割も重要でした。
フランスの、そしてスペインの王女たちの嫁ぎ先への引き渡しの場所として使われたのがフェザント島です。
下の絵は、フランス人画家による、フランス国王ルイ14世とスペイン国王フェリペ4世のフェザント島でのピレネー条約調印と、スペイン王女 マリア・テレサの引き渡しの様子を描いたものです。
ピレネー条約調印の条件のひとつがフランス国王ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサの結婚でした。結婚の持参金をフランス側に贈り、そのかわり、スペインの王位継承権を放棄するというのも条件でしたが、この持参金がフランスに払われることはありませんでした。その結果、その後のスペイン継承戦争でフランス王家が継承権を訴え、このルイ14世の孫がスペイン国王として即位し、それまでのスペイン・ハプスブルク王朝から、フランスのブルボン王朝へとスペインの王家は代わっていきました。
ピレネー条約が結ばれた頃、フランスは太陽王といわれたルイ14世の時代、フランス王政の黄金期でもあり、逆にスペインは、太陽が沈まない国といわれた黄金期をどんどん下って低迷期に入っていく時代、この条約の内容にもその後の両国の明暗が見え隠れしています。
真ん中の赤い服の人がルイ14世、その正面がフェリペ4世、白いドレスの王女マリア・テレサ。
ルイ14世のすぐ後ろにいる人はその弟フィリップ(オルレアン公)、その奥の黒いドレスの人は、ルイ14世の母、フェリペ4世の姉アンヌ・ドートリッシュ、(つまり新郎新婦は、いとこ同士)、その奥の赤い服の人は、ルイ14世の教育係で政治家でもあったマザラン枢機卿。アンヌ・ドートリッシュは、ルイ13世の王妃でしたが、王が亡くなったあと、このマザランが実質的に政治を行い、アンヌ・ドートリッシュとマザランは、内縁関係にあったという噂です。
余談ですが、19世紀にアレクサンドル・デュマが書いた、『三銃士』、騎士道と恋物語、舞台はフランス ルイ13世の時代、まさにこの絵の中の登場人物たちの時代、もしかしたらこの内縁関係の話が、三銃士のテーマになっているのかもしれませんね。
ピレネー条約 会場の装飾手配をしたのが≪ベラスケス≫
有名な『ラス メニーナス』を描いたベラスケスは、フェリペ4世の宮廷画家で、絵を描くだけではなく、王宮の装飾係のような仕事もしていました。
フェザント島での調印と、王女の引き渡しの儀式のために使われる場所の設定や、装飾などを仕切ったのはベラスケスでした。
絵の中でみられる装飾も、背景には風景をあしらったタペストリーが飾られ、手前上の方には、赤いビロードの布に金糸を使った刺繍を施した重厚なカーテン、そして、足元の絨毯の模様が、両国違うものが使用されています。
この世紀の大行事で疲れ果ててしまったベラスケス、結婚式は1660年6月10日に行われましたが、その約2か月後8月6日に画家は亡くなってしまいました。
この島では他にも、両国間の縁談がすすめられました。
1615年、フェリペ4世とルイ13世の妹エリザベート、ルイ13世とフェリペ4世の姉アンヌ・ドートリッシュこの2組の結婚の際の王女達の引き渡し、
1679年、カルロス2世(フェリペ4世の息子)とフランス王族マリー・テレーズ・ドルレアンの結婚式、
1721年、フランス王ルイ15世とスペイン王女マリア・ビクトリアの対面(後に破談)
また、人質返還の場所としてもフェザント島は使われていました。
バヨナ条約
バヨナは、フランス側の国境に近い街です。ここでは、過去何度も同じ名前の、バヨナ条約(スペインとフランスの領土に関する取り決め)が調印されましたが、1856年ナポレオンと当時のスペインの女王イサベル2世の時代にも調印が行われ、その時にフェザント島を半年ずつ管理をすることが決まりました。
このモニュメントは、1856年のバヨナ条約の時に、17世紀のピレネー条約調印の記念にフェザント島に設置されたもので、フランス側を向いている面にはフランス語で、反対側にはスペイン語で、その記録が刻まれています。
そんなわけで、かれこれ165年もの間、この島は、半年ずつフランスとスペインの物。
面積は2,000㎡くらいしかないのですが、スペインとフランスの国土面積は、半年ごとに増えたり減ったりしているのですね(?)
この島には、人は住んでいません。橋もかかっていないし、この島に上陸することは許可されていませんが、スペインバスク地方から、フランスバスク地方へ車で移動すると、この島のすぐ近くを通ります。意外なところに歴史の舞台ってあるものです。