【オンダリビア】サン・セバスティアンから日帰りで(半日で)行けるバスク地方の小さな街

バスク地方の中世の城壁を残す小さな街、オンダリビア。

フランスとの国境でもあり、長い歴史の中では、敵からの侵入を防御する大事な砦になっていた場所です。

現在も昔の雰囲気を残す中世の佇まいは、美食の街サン・セバスティアンから約30㎞。

バスク地方で夏のバケーションを過ごす人たちの気軽なエクスカーションの場所として人気です。

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オンダリビア

オンダリビアとはバスクの言葉で「砂の浅瀬」。

ちなみにバスク語ではオンダラビア Hondarrabia、スペイン語ではフエンテラビーアFuenterrabíaです。

フランスとの自然国境になっているビダソア川沿いの街で、ボートに乗って数分で対岸のフランス、アンダイエ(スペイン語ではエンダヤ)。ボートで渡らなくてもフランスはすぐそこに見えています。

ビダソア川河口 川を挟んで手前がオンダリビア(スペイン側)対岸がエンダヤ(フランス側)

海岸線のバスクの他の多くの街と同じく、この街の主な産業は漁業でした。20世紀末~21世紀になり、徐々に漁船の数も減り、漁業に携わる人口も少なくなりましたが、かつての漁村の雰囲気を残している地区もあるオンダリビアは、ほっとする街並みです。

14世紀の街のマーク 

オンダリビアの魅力は、城壁に囲まれた旧市街と、活気のある漁師街だったマリーナ地区(barrio de la marina)という、ちょっと違った2つの地区を歩いて散策できるところです。

国を守るための強固な壁の中の街並み、そしてかつての漁師さんたちが住んでいた地区では、ベランダに花が咲き乱れ、かわいらしいバスク特有のカラフルな建物などを見ることが出来ます。

城壁の旧市街

街の歴史は古く、旧石器時代にはこの地方に人が住んでいました。街の軍事戦略的な立地条件から、10世紀頃には街の要塞化がはじまりす。

壁の建設は、この地方がかつてナバラ王国の支配下にあった時代にはじまり、その後16世紀~17世紀にかけて強固な壁、跳ね橋、堀などの現在の構造になりました。

サンタ・マリア門

Iñaki LL, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

壁に囲まれた旧市街に2ヶ所設けられたメインゲートのひとつです。かつては、跳ね橋、護衛所、礼拝堂まで設けられていましたが、現在はこのアーチが残っています。

Iñaki LL, Wikimedia Commons

アーチの上の紋章は1694年当時の街の紋章です。

Hatxero( アチェロ)

Alberto-g-rovi, CC BY 3.0 Wikimedia Commons

サンタ・マリア門の前にはアチェロと呼ばれる、銅像が置かれています。

Joanatommy, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

昔、戦争で山道を軍隊が進むとき、行く手を遮る木や植物を切り倒すため、武器は持たず、手には斧や、のこぎり、棒を持って、軍の前方を歩いた、勇敢な兵士たちで、カムフラージュのために、羊の毛で作られた帽子をかぶって、靴は白いアルパルガタ(エスパドリーユ)でした。

上の写真は、9月8日のお祭りの様子です。

1638年に街を包囲された村人たちが、最終的にマリア様に祈り、1639年9月8日に開放された感謝と、亡くなった同胞たちへの追悼のために行われる街のお祭りです。

アルパルガタ

ちなみにアルパルガタ(エスパドリーユ)は、ピレネー山脈に起源を持つともいわれ、縄を編むためのエスパルトという丈夫な繊維と木綿布からできた伝統的な靴。現在はもう少し洗練されたおしゃれな靴に生まれ変わり、バスク地方のお土産のひとつとして人気があります。 (靴底がゴムではなくて、藁みたいなエスパルトの物)

マヨール通り Nagusia Kalea

サンタ・マリア門から入って正面の緩やかな坂道が、オンダリビア旧市街のメインストリート(マヨール通り)です。趣のある古い建物が並んでいます。

オンダリビアのマヨール通り

(いつ行ってもなんだかシーンとしているこの通り・・・)

Iñaki LL, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

【市役所(18世紀の建物 nagusia kalea20番地)】

Casa Consistorial 18世紀 市役所 Uranzu, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

【スロアガ宮殿(18世紀の建物、現在は街の図書館 nagusia kalea8番地)】

Palacio Zuloaga 18世紀 図書館 Cruccone, CC BY 3.0 Wikimedia Commons

サンタ・マリア教会

Zarateman, CC BY-SA 4.0 Wikimedia

15世紀から16世紀にかけて建造された教会。

1660年、フランス国王ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサの政略結婚の際、フランス側での最終的な結婚式はサン・ジャン・デ・リュズで6月9日に行われましたが、数日前の6月3日スペイン側でも代理結婚式が行われ、その会場となったのがこの教会です。

Uranzu, Wikimedia Commons

オンダリビアは、ハイスキベル山の麓に位置していて、この山の石灰岩を使って街の城壁は造られています。サンタ・マリア教会の建設にも、街の城壁に使われていたハイスキベル山の石灰岩が使用されています。

Jasagarra, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

ハイスキベル山は標高547mとそれほど高い山ではありませんが、カンタブリア海岸沿いでは一番高い山で、船乗りたちの目印にもなっていた山です。

ハイスキベル山

カルロス5世の城(パラドール)

Uranzu, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

Nagusia kalea(マヨール通り)を登りきり、サンタ・マリア教会を過ぎると、この厳つい壁の建物が見えてきます。

10世紀の末頃建てられたオンダリビアのこの城は、街の城壁と共に、ビダソア川の国境を守る軍事防衛の大事な拠点となった建物でした。

軍事的な拠点であり、政治的にもこの場所は大事な会議などで王侯貴族たちが立ち寄った場所で、カトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王)、カルロス1世、フェリペ4世、また、フランス国王ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサの結婚の準備をした宮廷画家ディエゴ・ベラスケスなど、歴史の重要人物たちもこの城を利用したのです。

装飾のない厳粛な正面はカルロス1世の時代の物で、建物の傷は銃弾の跡。

※カルロス1世=カール5世 同一人物、国によって呼び方変わる。この城の名前カルロス5世もこの場合同じ人

城と宮殿を兼ねた6階建ての建物で、かつては兵舎、弾薬や火薬のための倉庫、地下牢、厩舎などもありました。

建物正面 パラドール入口
Alberto-g-rovi, CC BY 3.0 Wikimedia Commons

その後1968年には、パラドール(国営ホテル)として改装され、現在も営業中の、重要文化財の建物です。

Paradores, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

建物は改装して、居心地のいいホテルですが、全体的には中世の古城の中にいるような石むき出しの壁や、オープンエアーの中庭を利用したレストラン、館内の装飾に古い大砲や、またルーベンスのデザインにより織られたタペストリーなど、ミニ博物館のようです。

Zarateman, CC BY-SA 3.0 ES Wikimedia Commons

建物の裏側に面した高台のテラスからは、ビダソア川に浮かぶ船と対岸フランス(エンダヤ)の景色も楽しめます。

パラドールのテラスと景色
Paradores, Wikimedia Commons

【アルマ広場(Plaza de Arma】

カルロス5世の城(現パラドール)の前はアルマ広場。

アルマ広場 (パラドール前)Calips, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons
アルマ広場のインフォメーションセンター (パラドールの前)
Aioramu, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

この広場で、兵士たちは武器の準備をしたり、また大事な宣誓式や街のお祭りなど中央広場の役割を果たしていた場所。

オンダリビアに闘牛場が造られたのは1892年ですが、闘牛の開催の記録は1474年からあり、闘牛場がなかったころはこのアルマ広場がその会場になっていました。

※オンダリビアに限らず、闘牛場がなかった時代は、街の大きな広場を仮設の闘牛場として使うのは一般的なことでした。

アルマ広場からサン・ニコラス通りの建物
Eskualdeko nortasun hitzak Aiurri, Wikimedia Commons

ギプスコア広場

ギプスコア広場
Dr. med. Mabuse, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

アーケード付きの、北ヨーロッパではよく見られたハーフティンバーの半木骨造様式の建物、花で飾られたバルコニー、石畳の地面と、中世ヨーロッパにタイムスリップしたかのような一角で、数件のバルや土産物店があります。オンダリビアでも人気の写真スポットです。

この広場は、20世紀のスペイン人建築家、マヌエル・マンサノ・モニスの旧市街復興事業(1952年)の一環で再現された街並みと広場で、マヌエル・マンサノ・モニスは、この後も、1963年にも街の城壁と街並みの復興事業も行い、オンダリビアとは深い関わりがあり、彼のお墓はオンダリビアの市民墓地に埋葬されています。

※彼の功績は海外からも評価を受け、1982年には、「都市再建ヨーロッパ賞」も贈られています。

サン・ニコラス門

Calips, Wikimedia Commons

初めに紹介したサンタ・マリア門と共に、街の入場口の一つとして16世紀に造られた門。

門の外側の橋がある方は最近修復されたもの、橋の入口付近は跳ね橋になっていました。

門の内側は、16世紀の壁と共に古い時代の門が残っています。

カルロス5世の城(パラドール)があるアルマ広場から、サン・ニコラス通りを下った突き当りがこの門です。

マリーナ地区(漁師地区)

城壁の旧市街を出て、しばらく歩くとかつての漁師たちが住んでいた家々が残っているマリーナ地区です。

古くからオンダリビアは漁業の街でしたが、1361年創立の漁業協同組合(サン・ペドロ組合)のおかげで、他のバスク地方でよく見られた漁業権をめぐる漁師たちの競争を規制し、またケガや病気、高齢などの理由で漁に行けないメンバーの生活も保障し連帯感を高めていました。

Miguel Ángel García. from Ólvega., Wikimedia Commons

16世紀以降オンダリビアの漁業は小型船でのイワシ、カタクチイワシ漁が中心で、塩漬けにした製品(アンチョビ)を外国へ輸出していました。

マリーナ地区は、中世末期ごろから漁師たちやその家族が商業活動や、居住地として集まり栄えた地区。

狭い石造りで木骨の家々が密集し、バルコニーには花が飾られ賑やかです。

緑や青、赤といった鮮やかな色で塗られた家は、この地方の伝統的な船の塗装に使われる色とも言われています。

現在この地区は、人気のバルやレストラン、カフェテリア、その他この地方のお土産などを売っている店、またパン屋さん、八百屋さん、スーパー、薬局など地元住人の生活に必要な日用品の店などもある、面白い地区です。

人気のレストラン、バルなど

美食で有名なバスク地方ならではの、手の込んだピンチョス(おつまみ)の店や、ミシュランの星付きレストラン、魚介スープが世界一美味しいと評判になったレストランなど多くの飲食店があります。

バスクの地ビール

①Bar Gran Sol(バル グランソル)  San Pedro Kalea1
コンクールで賞をもらったピンチョスのお店

②La Hermandad de Pescadores(ラ・エルマンダー・デ・ペスカドーレス) 
Zuloaga Kalea12 魚介スープが世界一と評判の店

③Alameda(アラメダ)  Minasoroeta Kalea1(サンタ・マリア門の近く)
ミシュラン星付きレストラン
※②③は予約要、①は予約はできません

この3件は特に人気ですが、それ以外にも美味しいお店はいっぱいです。

サン・セバスティアンからの行き方

車ならサン・セバスティアンから30分位、バスはサン・セバスティアンのギプスコア広場から、E21が便利です。

※Lurraldebusに属するEkialdebusラインE21は、AP-8高速道路に沿ってサン・セバスティアンと空港、オンダリビアの街を結ぶバスラインです。

Sabin Aranaで降りると、マリーナ地区と城壁の旧市街のほぼ中間地点です。

料金は約€3です。
バスの番号、ルート、料金は改定される可能性がありますので、必ず現地で確認してください。

まとめ

小さな街なので迷う事もなく、ゆっくり散策して、テラスで座って休憩して、また散策の続き・・・。

バスク地方で時間に追われない、のんびりした時間を楽しんでください。

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