バルセロナのランドマークとも言える、サグラダファミリア。
前回は、すでに世界遺産に登録されている、生誕のファサードを紹介しました。
今回は、受難のファサードです。
受難のファサード
受難のファサードは、最後の晩餐から復活までの、イエスの人生の最期の記録です。
生誕のファサードは、あたたく包まれる春の光のような、イエスの誕生と幼少期の記録、生命への喜びの象徴なのに対し、受難のファサードは、全く逆の、硬く冷たい冬のような、イエスの苦しみの様子なのです。
ガウディは、受難のファサードが街の人達に与えるインパクトを初めからわかっていて、意図的に生誕のファサードを先に完成させています。
サグラダファミリアは、聖家族贖罪(しょくざい)教会といって、贖罪とは、自分が犯した罪を滅ぼすための善行や、募金などをすることで、この教会は、信者の募金(と、現在は観光の入場料も)が資金源なので、受難の苦しみのシーンを先に手掛けて、それを拒絶されてしまうと、資金源確保にも影響が及ぶのは必至です。
そのことを考慮して、先に生誕のファサードが生まれて育っていく過程を信者たちも見守り、その間この建造中の建物への単なる興味が、いつのまにか親しみにかわり、少しずつ街の人達の中にその居場所を築いていき、
そのベースを造った上で、受難のファサードの装飾をはじめ、拒絶反応を和らげようとしたようです。
彫刻家はジョセップ・マリア・スビラックス
スビラックスは、スペイン カタルーニャ出身の彫刻家で、1987年から受難の門の装飾をはじめました。
ガウディの、「それぞれの時代の技術をもって、跡を継いでいって欲しい」という遺志のもと、スビラックスはガウディの作風とは全く違う、スビラックス独特の感性と技術で、ガウディの世界を表現しています。
ガウディが受難のファサードに希望したのは、イエスの最期の苦しみ、硬く冷たい無機質の世界。
受難のファサードは、一瞬 見る者に、”なんでこんな作品を作ったんだ? これじゃガウディの世界が台無しじゃないか” という印象を与えるかもしれませんが、これこそが、ガウディが望んでいた受難のファサード、そして、予想通りインパクトを与える作品なのです。
装飾の詳細
受難のファサードは、下の方から上の方にむかって、地上から天上界への順にシーンが続いていきます。アルファベットの S の形で、向かって左の端からカーブを描きながら、Sの形に昇っていきます。
最後の晩餐(向かって一番左下の部分)
イエスが処刑される前日、12人の弟子と一緒に食事をし、その時に「この中に私を裏切る者がいます」とイエスが言った瞬間の弟子たちの驚きと動揺が伝わるこのシーン。
【最後の晩餐】↓↓↓↓↓↓
石の彫刻作品で、色もなく抽象的なスビラックスの【最後の晩餐】ですが、弟子たちの動揺が十分に伝わってきます。裏切り者のユダは、向かって右から2番目。
このシーンは、キリスト教関連の美術のテーマでよく扱われているもので、裏切り者のユダの姿は、通常、①イエスから顔を背け、②端の方で、③不安な表情(というか、ヤバイという感じでしょうか?)④手にイエスを裏切る報酬として受け取った銀貨30枚が入った袋を握りしめている、のどれかで表現されていることがほとんどです。
ちなみに、裏切り者のユダは、その後どうしたかというと、自分の行いを悔いて、首を吊って命を絶ったという事になっています。
スペインでは、ユダの木=árbol de Judasと呼ばれる木(西洋ハナズオウ)があって、この木で首を吊ったそうです。毎年セマナサンタ(聖週間)のこの時期に、ユダの木にはとてもきれいなお花が咲きます。
ペドロと兵士
最後の晩餐のシーンの右には、イエスを捕えようとしている兵士からイエスを守ろうとするペドロ(イエスの一番弟子)。このシーンは本来ならば次のユダのキスのシーンの後か、同時に起きた出来事。
↓↓↓↓↓↓【ペドロと兵士(左の方)】
ユダのキス
ユダヤの司祭に命じられてイエスを捕えにやって来たユダヤ兵、どの人がイエスなのかわかるように、裏切り者のユダは、イエスに抱きついてキスをする、それが30枚の銀貨をもらうための契約でした。
【ユダのキス】↓↓↓↓↓↓
先にふれた、ペドロと兵士のシーンは、この時ユダヤ兵たちからイエスを守ろうと戦うペドロで、持っていた剣で兵士の耳を切り落としてしまいます。
自分を捕えに来て、傷ついた兵士さえも、イエスはその傷を癒しました。
【ユダのキス と、 (左下)ペドロと兵士】↓↓↓↓↓↓
キスのシーンの後ろのコレ↓↓↓↓↓↓
【魔方陣】といって、私の頭ではどういう法則なのかわかりませんが(^^;)、縦でも横でも斜めでも、数字を足し算してみてください。答えは必ず33、イエスが亡くなった時の年齢です。
ペドロの否定
【ペドロの否定】↓↓↓↓↓↓
ユダばかりがイエスを裏切ったことになっていますが、イエスは弟子全員自分を見捨てて逃げて行く事をわかっていました。
最後の晩餐で、イエスが「この中に私を裏切る者がいます」と言った時、一番弟子のペドロは、「そんなことはありません、あなた様を裏切るなんてありえません」と言うのですが、イエスはそのペドロに向かって、「あなたも鶏が鳴く前に私を3回否定するでしょう」と言い残すのです。
イエスが捕えられたあと、弟子たちはみんなその場から逃げてしまい、一番弟子のペドロも同じように逃げてしまいます。
そして、ある女性に「あなたは、イエスと一緒にいた人でしょう」と尋ねられた時、「いいえ、あの人を知りません」と否定し、その後、鶏が鳴く前に、あと2回同じように否定をしてしまいます。
鶏が鳴いた時、イエスの言葉を思い出して、後悔して激しく泣きました、というシーンです。
後悔して泣くペドロ、物凄く落ち込んだ顔してます。←個人的にこの落ち込んだペドロがお気に入り。
後ろには鶏と、3人の女性(3回否定したことを意味する)がいます。
この人を見よ
【この人を見よ】↓↓↓↓↓↓
捕えられたイエスは、ピラトの元へ連れていかれます。ピラトは、当時のローマのユダヤ属州の総督でした。イエスが捕えられたのは、ナザレのイエスが救世主であるというような噂を広げていて、また、法律をとても大事にしていたユダヤ民族に、そういう事よりも、もっと人道的な面が大事であるというようなことを話歩いていた、という事でした。
ピラトはイエスを尋問しますが、イエスの、何か未知の力を感じたのか、それとも、この人は、みんなが処刑しろと騒ぎ立てるほどの人なのか、そして、そんな悪いことを本当にしていると言えるだろうかと、結論が出せず「この人を見よ(この人を見てごらんなさい、本当にみんながそんなに反感持つような人?といったニュアンス)」
彫刻でも、結論がでないピラトは頭を抱えて悩んでいる姿。(右端)
この時のイエスは、捕えられたあと、鞭でうたれ、殴られボロボロで、そのうえ茨の王冠を頭にのせられ(ユダヤの王になったような振る舞いをするから、こんな目に合うんだという侮辱の意味)とても屈辱的な姿だったのです。
鞭打ちの刑
中央の門の前の柱に注目すると、それがイエスの鞭打ちの刑。
【鞭打ちの刑】↓↓↓↓↓↓
4ブロックにわかれている柱が、十字架(の4ブロック)を暗示しています。
裏切り者のユダと、同じくイエスを見捨てて否定したペドロの間に置かれているのも象徴的です。
下の台座、後ろ側に、彫刻家スビラックスの名前が刻んであります。
その後ろの門の間の柱の上には、
ギリシャアルファベットの最初と最後の文字 α(アルファ)とΩ(オメガ)最初(始まり)と最後(終わり)という意味になるんだそうです。
イエスの裁判
結局、結論が出せないピラトは、群衆に答えを委ねます。
この時、ユダヤの過越し祭の時期で、この過越し祭では、毎年罪人の恩赦が行われる習慣で、ピラトは、これを利用してイエスを釈放しようと思います。
(このシーンでは、ピラトは手を洗って、イエスの裁判を放棄したことを意味しています。)
【イエスの裁判】
左が手を洗うピラト。
群衆は、イエスではなく、本当の罪人である別の男の釈放を望み、最終的にイエスは、処刑されることになります。
3人のマリアとキレネのシモン
処刑が決まったイエスが処刑場であるゴルゴタの丘へ向かう時、倒れたイエスの十字架を担ぐのを手伝った男シモンと、聖母マリア、マグダラのマリア、クレオファスのマリアの姿があります。
福音者とヴェロニカ
福音者とは、聖書の中の一部である福音(イエスの教えや奇跡、イエスの人生を語ったもの)をまとめた人。左の横向きの人は、その福音者の1人なのですが、その顔のモデルになっているのは、ガウディ本人です。
スビラックスが、ガウディへ敬意をこの福音者の姿で表現しました。
イエスが十字架を担いで丘を登る途中、また倒れてしまいます。
その時、ヴェロニカという女性が、イエスの顔の汗を持っていたヴエールで拭いました。すると、そのヴェールに、イエスの顔が浮かび上がるという奇跡が起きました。というシーン。
イエスの顔を強調するために、ヴェロニカの顔はのっぺらぼう状態。
後ろの兵士たちの姿が、ガウディの別の作品カサ・ミラの屋上にある、兵士とそっくりです。
ロンギヌス + サイコロ遊びをする兵士
ロンギヌスは、イエスが磔に刑にあったとき、その最期を確認するために、イエスの脇腹を槍で突いた兵士。(馬に乗った兵士が槍を突き刺している)
この時使用された槍は聖槍、流れたイエスの血は、聖血といわれ、聖遺物として保管されています。
【ロンギヌス+サイコロ遊びをする兵士】↓↓↓↓↓↓
サイコロ遊びをする兵士(ロンギヌスの上)は、当時、磔の刑などで処刑された罪人たちの私物は、係の兵士たちが好きなように奪い取って分けていました。その取り分を決めるために、今でいうサイコロのようなゲームをしている兵士です。
磔の刑
ついにその時を迎え、ここではイエスはもう亡くなっていて、先程の3人のマリア達。
【磔の刑】↓↓↓↓↓↓
十字架の上の I の文字が、赤。これはINRIの最初の文字でラテン語で、IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM = ユダヤ人の王、ナザレのイエスという意味。
この彫刻は、かなり上の方にあって、下から見上げる形になるのですが、下から見ると十字架とイエスは、ちゃんと見学者目線で、下向きに造られています。
埋葬
十字架から降ろされたイエスを埋葬しているシーン。
これで終わりそうなのですが、もう1シーン。
イエスの昇天
イエスは、「私は3日後に復活します」と言葉を残しましたが、3日後にお墓を開けたら、すでにイエスの遺体はありませんでした。
どこに行ってしまったかというと、
ココ↓↓↓↓↓↓【イエスの昇天】
受難のファサードの入口前は、少し傾斜していて、その一番下まで行って、少し離れたところから上を見上げて見てください。
4本の塔の間、白い十字架の後ろから、
重さ2,000㎏のブロンズ像のイエスがこちらを見ています。←これも個人的に大好き
柱
受難のファサードは、木の形をイメージした6本の斜めになった柱と、上の方のは18本の小さな柱があって、まるで人間の骨の様です。
森の入口に立っている気分にもなります。
まとめ
ガウディの作品の基本にあるのは、いつも ”自然” です。自然の中に、同じものは2つとないし、自然の中に変わる事のない直線的な物はないという考えのもと、作品のほとんどが柔らかく自然にカーブしているのに対して、スビラックスは、生命の誕生と同じくらいに感情が大きく動く最期の苦しみのシーンを、”線” で表現しました。
批判を受けることは覚悟のうえで、また、ガウディの偉大さを認識したうえで、恐れることなく自分の作風をもって受難のシーンに向かいあったスビラックスの強い個性と信念を感じられると思います。
逆にこのくらいの個性と信念がないと、ガウディの影にかくれて、中途半端な物になっていたでしょう。
ガウディが残した設計図(といっても、もともと多くはなく、また市民戦争などで焼けてしまって、残った資料をかき集めたものですが)の中には、「それぞれの時代の技術をもって、跡を継いでいって欲しい」という大きな柱があり、そのガウディの言葉を忠実に守って建築を続けているのが、サグラダファミリアです。
前回は誕生のファサード、今回は受難のファサードを紹介しました。
どちらも事前に少しでも情報があれば、観光も断然楽しくなると思うので、ざっくりと見どころをまとめてみました。
完成予定は2026年です。いつか是非行ってみてくださいね。