マドリードの旧市街地 ビジャ広場(Plaza de la Villa)見どころ 観光客で賑やかな通り沿いの、中世の建物が残る静かな一角。

マドリードの旧市街にある小さな広場、ビジャ広場

かつての街の中央広場だったところです。

広場内には、マドリード市内でも特に古い建物が残っていて、ここだけ時間が止まってしまったような空間です。

ビジャ広場 Jean-Pierre Dalbéra via Wikimedia Commons

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ビジャ広場

中世スペインでは、公式行事や、宗教行事、行政、また街の人達の市場を開く場所を一か所に定めるために(特に税金徴収のため市場の場所を管理したかった)街に広場を作っていました。

15世紀のカステージャ王国のエンリケ4世という王様の時代、マドリードは、Noble y Real Villa(ノブレ イ レアル ビジャ=「高貴な王の村」という称号を授かり、その頃の街の中央広場としてできた広場、それがビジャ広場です。

その後街が大きくなるにつれて、市場の場所がもっと広い場所に移っていき、最終的には現在もあるマヨール広場が街の市場、公式行事の場所として整備されていきましたが、街の政治を行う場所⇒市役所は、21世紀のはじめまで、この広場の建物が使われていました。

広場には、

Casa y Torre de los Lujanes (ルハネス一族の家と塔)
Casa de los Cisneros(シスネロ家)
Casa de la Villa (マドリード旧市庁舎)
アルバロ・デ・バサンの銅像
⑤その他(コード通り、マドリード通り

などがあります。

見どころ① ルハネス家と塔(15世紀)

ルハネス家 Luis García, CC BY-SA 3 Wikimedia Commons

建物は15世紀の物で、マドリード市内の個人の家として建てられた物の中で、現存している一番古い建物です。

いかにもアラブ風の門

建築様式は、その当時ヨーロッパの主流でもあったゴシック様式と、イスラム建築様式であるムデハル様式の混合になっています。

【ムデハル】イスラム軍とカトリック教徒軍は8世紀から15世紀までイベリア半島で戦争をしていて、イスラム軍に征服された土地をカトリック教徒軍が少しずつ回復していく、レコンキスタ(国土再征服)がおこなわれていました。

カトリック軍が奪回した街に住んでいたイスラム教徒たちは、宗教を変えることなくイスラム教徒のまま生活を続けていきますが、カトリック支配下におかれたイスラム教徒をムデハルと言いました。ムデハルとは、アラブの言葉で”残留者”という意味です。(逆にイスラム軍支配下におかれたキリスト教徒たちは、モサラべと言います。)

マドリードをレコンキスタしたのは11世紀の終盤、その後15世紀の終わりまで彼らはこの街で生活をしていました。ムデハル様式は、イスラムとスペインの2つの様式が融合したイベリア半島独特の様式です。

スペインが他のどこの国とも違うのは、ヨーロッパの国でありながら、イスラム文化もいまだに消滅せず、それは建造物だけではなく、言葉や食文化や、生活習慣などいろんなところに息づいているところです。

イスラム建築の建物は、アルハンブラ宮殿を筆頭にアンダルシア州に多く残っていて、他の国にはないスペインらしさを醸し出していますが、マドリードにもこうやって旧市街地の一角に当時の面影を残した建物が存在しています。

ペドロ・ルハンは王のお気に入りの御給仕係で、1450年頃もともと街の会計士が住んでいた家を購入したもので、今現在は政治学や社会学を学ぶ学校です。

見どころ② シスネロ家(16世紀)

シスネロ家 losmininos, CC BY-SA 2.0 Wikimedia Commons

15世紀スペインにはシスネロ枢機卿と言って、ローマ法王にも一目おかれ、スペイン史でも特に大事なイサベル女王の信頼を受け、その孫にもあたるカルロス1世にも仕えた、スペイン黄金期幕開け時代の政治、宗教家がいました。(世界遺産でもあるアルカラ・デ・エナーレスの大学創立者

この建物は、16世紀、やはり王家で大事な職に就いていたシスネロ枢機卿の甥にあたる人物が造ったもの。

20世紀の初めにマドリード市役所が購入し、リフォームされ、現在は、(17世紀に建てられた隣の建物)マドリードの(旧)市役所とつながっています。

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見どころ③ カサ・デ・ラ・ビジャ(17世紀 マドリード旧市庁舎)

カサ・デ・ラ・ビジャ(マドリード旧市役所の一部)

17世紀に建てられたもので、もともとは、国王フェリペ3世の側近で、王家でも権力を持っていた人物のお屋敷だったもの。フェリペ3世の息子フェリペ4世の時代からそれまでこの近くにあったサン・サルバドール教会で行われた各種会議がこの建物で行われる事になりました。

それが1692年、その時から街の行政の中心、いわゆる市役所で、なんと2007年まではこの建物がマドリードの市役所として300年以上にわたって使用されていました。

今現在も市役所の一部ですが、今は、歓迎のレセプションなど特別な行事の時だけ使われています。
(市役所本館は、シベレス広場にあります)

見どころ④ アルバロ・デ・バサンの銅像

アルバロ・デ・バサン

広場の真ん中の銅像は、アルバロ・デ・バサンという人物。バサン家は代々スペイン王家に仕え軍隊で活躍をしましたが、このアルバロ・デ・バサンは、スペイン国王フェリペ2世の時代、スペインが無敵艦隊とよばれ、世界の海に乗り出していたころの海軍大将です。

亡くなったのが1588年だったので、1888年海軍の英雄没後300年を記念して、市が建造したもの。
この界隈の大事な場所には、スペインの歴代国王の銅像が設置されているのですが、

マドリードの歴史ではかなり大事なこの広場にアルバロ・デ・バサン像が置かれているのは、歴史の英雄であることと、

広場の大きさの問題で、国王の騎馬像は、どれももっと大きめで、この広場ではバランスが悪くなるため、小さめサイズのこの銅像がこの広場に設置されました。

その他

ビジャ広場はマヨール通り沿いに位置していますが、よく見るとそれ以外3本の道がこの広場から伸びています。

そのうちの1本が、見どころ①で紹介したルハン家の建物の塔の下、奥に伸びる細い道コード通りです。

【コード通りcalle del codo】

コード通り

コードとは肘のことです。上の写真のように、この道は、入って奥は突き当りで、そこからカクっと右手の方に折れていて、まるで肘のようだから、コード通り。ここにもアラブ風の入り口があります。

コード通り

道の名前が書いてあるプレートの絵は、甲冑を付けた腕、肘がカクっと曲がってますね。

奥の方に道なりに進んでいくと、ちょっとした広場があってそこを左手に行くとサンミゲル市場の方に出ることができます。

【マドリード通り calle de Madrid】

マドリード通り

広場右手の17世紀に建てられた(旧)市庁舎(Casa de la Villa)と広場正面の16世紀のシスネロ家、どちらも現在は市庁舎の一部として使われていて、2つの建物の間は、このアーチでつながっています。

マドリード通りは、短い道ですがちゃんと道の名前のプレートもあります。

マドリードで一番短い道は、プエルタ・デル・ソルに近い、Rompelamzasという通りが20mにも満たない短い通りで存在していますが、このマドリード通りもかなり短め。

シスネロ家の建物の角から、広場の部分も含めて、アーチを抜けた辺りまでがマドリード通り。
広場の部分を含めなければ、一番短い道ではないでしょうか。

おまけ

広場の近くにはマヨール広場や、サンミゲル市場、またバル街などもあって、飲食店はたくさんありますが、

この広場を背にして、マヨール通りを渡ったところの道に入っていくと、ほどなく、Can Punyetes(calle de los señoles de Luzón 5)というこじんまりしたレストランがあり、ここはカタルーニャ州の冬の名物料理カルソッツ(焼きねぎ)をマドリードで食べられる、数少ないレストランの一軒です。

カルソッツで有名な庶民的なレストラン

ネギ以外も、エスカリバーダという色んな野菜のグリル、カタルーニャ州のソーセージ ブティファラ、他にも、カタツムリ(カラコレス)や、ウサギ(コネホ)のグリルなど、ちょっと変わったお料理があります。(カルソッツのシーズンは12月~3月くらい)

シーズン中タイミングが合えば、話のタネに焼ネギを食べに行くのも楽しいかも。

まとめ

プエルタ・デル・ソル(太陽の門)、マヨール広場アルムデナ大聖堂、王宮などの観光地が並ぶこの地区。散策の途中にきっと通過する場所なので、ちょっと足を止めて、この広場も一周してみてはいかがでしょうか。