プエルタ・デル・ソルは、昼でも夜でも一日中賑やかな、マドリードの中心地。
ここを起点に、観光にもショッピングにも、そしてバル街に行くにもとても便利な場所。
建物や彫刻など、歴史的な物や、街のシンボルになっている物、いろいろあるので、どんな場所なのか紹介したいと思います。
プエルタ・デル・ソル(太陽の門)
プエルタ=門 ソル=太陽 ⇒ 太陽の門 という名前のこの広場。マドリードの人達は、≪ソル≫と呼びます。
太陽の門ですが、門がどこかにあるかというと、門はありません。
もともとは、イスラム軍支配下におかれていたマドリードをカトリック軍が取り返したあとに、街の周りに壁を造り、その壁の入口のひとつだったのがプエルタ・デル・ソル。
ちなみに単なる入口のひとつだったこの門、16世紀 になってカルロス1世という王様の時代に特に壁と門が強化されました。
コムネロスの戦い
カルロス1世は、外国生まれの外国育ち、スペイン語も話せない状態でスペインを継ぐことになった王様で、母方スペインからは、スペインと新大陸を、父方からは、神聖のローマ帝国(ドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアなど)というゆるぎない権力と多くの国を受け継ぎ、ヨーロッパを、そして世界を手中にと野望を持っていた王様。スペイン国王として君臨する際、側近は生まれ故郷のフランドルの貴族たちで固め、王様の旅の資金や側近たちの必要経費などのため、スペイン国民には容赦なく税金を課した王様でした。
当時、スペインで自治権をもつ都市(街)をコムニダーといい、その市民たちをコムネロスと呼びました。
その中でも、トレド、セゴビア、サラマンカなど政治的にも経済的にも力を持っていた街では、国王の要求を受けず、街の有力者を中心に国王に反旗を翻しまし、戦争へと発展していきます。
16世国王カルロス1世と市民との戦争をコムネロスの戦い(コムネロスの反乱)といい、1520年にはじまり、それぞれの街のリーダーたちが捕えられ処刑されたのが1521年4月24日、今から500年前です。
コムネロスの戦いは、最終的には、国王側に軍配があがりました。
その頃まだマドリードはスペインの首都ではなく、政治経済的にすごく力があったというほどでもなかったのですが、マドリードでは市長の奥さんがリーダーとなって、やはり暴動がおきました。
マドリードの反乱はそれほど大きなものではなかったのですが、それでも危機を感じた国王側は街の入り口周辺の警備を固めるため、門も強化したのです。
※コムネロスの反乱は、絶対王政に対する抗議デモであり、中世ヨーロッパでの初の民主主義運動ともいわれるもの、500年たった現在でもこの広場で同じように民主主義を守るための抗議デモが行われて、歴史的にも大事なマドリード市民の原点でもあるのが、プエルタ・デル・ソルです。
その後マドリードに首都が移り、人口が増え、街の拡張工事が何度か行われていきましたが、その歴史の中でこの場所にあった門も壁も姿を消してしまい、名前だけが地名として残りました。
コムネロスの戦だけではなく、フランスのナポレオン軍とマドリードの市民たちが戦った、ゴヤの絵でも有名な≪1808年5月2日≫の舞台になったのもこのプエルタ・デル・ソルです。
この入口がかつてのマドリードの中心地からすると東側で、太陽が昇る方向でもあったことから、太陽の門と呼ばれるようになったようです。
もうひとつの説は、たまたまこの門の装飾をした職人さんの気まぐれで、太陽のモチーフを刻んだので太陽の門とよばれるようになったとか。
見どころ1 熊さんの銅像
プエルタ・デル・ソルのこの熊さんの銅像は、高さ4m、重さ20トン、街のシンボルでマドリードの人達の待ち合わせ場所にもよく使われるところ、観光の人達にも人気のフォトポイントのひとつです。
MADRID 1967-2017 とありますが、銅像が造られたのが1967年、銅像の50周年記念で刻まれました。
この木と熊のデザインは、マドリード市の紋章になっていて、市の旗をはじめとして、市で管理している物、例えば市バス、タクシー、ごみ箱、マンホールの蓋にまで表示されています。
木は、マドローニョ、山イチゴの木です。マドリード市内の公園や、街路樹としても植えられていて、秋から冬にかけてイチゴのような赤い木の実がなります。
なんで熊とマドローニョなのか?
熊は昔マドリード周辺の森に生息していたそうで、強い動物である熊が採用され、マドリードでは熊を街のシンボルとして旗印に掲げていました。
マドローニョは、特にマドリードに多くある木でもないので、理由は不明です。マドリードとマドローニョ、音が似ているからという説もあるようです。
熊とマドローニョの木が合体したのは13世紀。1222年、(当時この辺りは、カスティージャ王国と呼ばれていた時代)カスティージャ王国の王様は、マドリードの土地の管理をどうするか決める際、牧草地や畑は教会側、森=木が生えていて、野生動物がいるところ=狩猟や木材、燃料(炭)は市側と決めました。
その分割された領土がはっきりわかるように、もともと旗印に使っていた熊に森の木(マドローニョ)が追加されたものです。
この熊がオスなのかメスなのかの論争があって、一応メスの熊さんだそうです。
見どころ2 マドリード州政府庁
こちらの建物は、マドリード州政府庁、もともとは18世紀に建てられた郵便局でした。
スペインは17の州からなる国で、マドリード市はマドリード州に中にあるひとつの市です。
はじめに説明した通り、プエルタ・デル・ソルは、歴史に残る色んな出来事の舞台になった場所。
下の写真↓↓↓↓↓↓ 1808年ナポレオン軍との初めての決戦が行われた場所と書いてあります。
その時の様子を絵にしたのが、ゴヤの1808年5月2日。
マドリードの標高
マドリードは、ヨーロッパの国々の首都の中で、いちばん標高が高いところにある首都です。
上の写真に標高650.7と表記されています。(その上には、2004年3月11日のテロ事件で亡くなった犠牲者の方々への追悼と、その時のマドリード市民の協力に対する敬意のことば。)
12月31日年越しカウントダウンの時の鐘
マドリード州政府庁の建物の上には、時計があります。この時計は19世紀、イサベル2世女王の時代に設置されたものです。
ロンドン在住のスペイン人時計職人 José Rodríguez Losadaさんが約3年がかりで、無報酬で作り上げた時計です。
時計の上には鐘もあり、マドリード市民は、年末のカウントダウンのためにこの場所に集まり、鐘の音を待ちます。
この鐘がスペイン中にテレビで放送されるので、多くのスペイン人はこの鐘の音を聞きながら新しい年を迎えます。
スペインの年越には、年越しブドウ。
スペインでは年末のカウントダウンでは、ブドウを食べる習慣があります。
ブドウを12粒用意しておいて、12回鐘がなる間、1粒ずつブドウを食べて年越しです。
実はスペインは、ヨーロッパで1位、世界でも第2位のブドウ生産国でもあるのです。
ちなみに、年越しにブドウを食べるようになったのは1909年から、スペインの東海岸の街アリカンテでブドウが大豊作で、そのブドウの消費キャンペーンで、「ブドウを食べながら年越しをして幸せな年を迎えよう、12粒のブドウで12か月の健康と幸せを願って・・・」という事ではじまったそうで、それが習慣になって今に至っています。
また、もう一つの説では、19世紀の後半には、街の有力者や貴族たちは、フランスの社交界の真似をして、シャンパンを飲んでブドウをつまんだりしてクリスマスシーズンを祝っていました。
一般の市民たちも年末年始の時期になると、お酒を飲んで外で騒いだりしていたのですが、ある年から1月6日の宗教的なお祝いの日は街の中で騒ぐのが禁止されてしまいました。
その事への抗議と、フランス人をまねて気取っている上流階級の人達への皮肉も兼ねて、31日は市民も外で乾杯し、ブドウを食べて騒ぐようになったとか。
どちらにしてもその習慣が今でも続いているので、スペインでは年越しそばではなく年越しぶどうです。最近は便利な12粒入りのブドウのシロップ漬けの缶詰も年末に向けて売られています。
見どころ3 Km0(0Km地点)
マドリード州政府庁の建物の正面に、↓↓↓↓↓↓半円形のプレートが埋め込まれています。
半円形の中にスペインの地図があり、真ん中の丸がマドリード。そこから6本細い線がのびていて、それぞれが、バスク州、カタルーニャ州、バレンシア州、アンダルシア州、エストレマドゥーラ州、ガリシア州へと延びる道です。
スペインでは、18世紀に上記の6本の国道が整備され、その時の起点となる場所だったのがマドリードの中心のこの場所で、ここから距離を測っていました。
16世紀にスペインの首都がマドリードに置かれた理由のひとつは、マドリードがスペインの真ん中にあり、国中を管理するのに適した場所だったから。
そのマドリードの真ん中から各方面に道が整備されていったのです。
18世紀は中心地であったこの場所ですが、その後街も大きくなり、現在マドリードの中心地点なのは、コロンブスの像があるコロン広場のあたりです。
プレートが設置されたのは1950年、現在のプレートは2009年に新しくしたもの。
今でもマドリード市内の道は、プエルタ・デル・ソルの ”Km0″ 地点が起点になっていて、どの道も、プエルタ・デル・ソルに近くなるほど番地の数字が小さくなっていきます。
プエルタ・デル・ソルを起点に出発すると、道の左側が、1番3番5番地(奇数)・・・、道の右側が2番4番6番地(偶数)・・・になっています。
見どころ4 カルロス3世銅像
18世紀のスペインの王様です。
カルロス3世は、お兄さんがスペイン国王だったのですが、兄王が亡くなり急にスペイン国王になりました。それまでは、イタリアのナポリ・シチリア王として君臨していた人で、美術にも造詣が深く、イタリアからお気に入りの芸術家を引き連れてスペインに戻ってきました。
カルロス3世がスペインに戻った当時、まだマドリードは衛生的な面でかなり出遅れていて、この王様の時代に、下水道の整備、ごみ回収システム、道の舗装、街灯設置など街の改革に尽力しました。
街の装飾にも力を入れ、街の門や噴水や彫刻などマドリードを今でも飾る作品(アルカラ門、シベレスの噴水、ネプトゥーノの噴水など)は、この時代の物が多くあります。
ブエンレティーロという磁器の工場を造ったり、植物園、天文台、自然科学博物館(現在のプラド館の建物)を造りコロンブスの新大陸到達以降の南米からの遺跡の調査、研究、資料の整理などをしたり、クリスマスの定番、飾り人形(ベレン)や、宝くじのシステムを導入し売り上げの25%を国の予算に回し直接的な税金引き上げを抑えたり、多くの功績を残した国王で、マドリードでは、≪史上一番素晴らしい市長だった≫と言われるほどです。
18世紀の国王ですが、≪マドリード市長王≫に敬意を表してこの銅像がつくられたのは1994年です。
銅像の台座には、カルロス3世の生涯が刻んであるのですが、上から下に向かって螺旋状になっていて、彼の生涯を知るには、台座の周りを12周することになります。
見どころ5 トップマンタ
上の写真のような路上の物売りさんの事を≪トップマンタ≫と呼びます。
マンタは毛布(布)の事。布の上にはっきり偽物とわかるブランド商品や、色んな物を並べて、勝手に営業を始める人たちです。布の四隅に紐が付いていて、警察が見回りにくると、みんな一斉にサッと紐を引っ張って店じまい、サンタクロースの袋のようになった布を抱えて逃げていきます。
ちょっと(かなり?)怪しげではありますが、スペイン人も含めて観光客の人達も結構路上での買い物を楽しんでいます。
まとめ
一見なんでもない広場のようですが、いろいろ歴史のあるプエルタ・デル・ソル。
マドリードを訪れる機会があったら、きっとこの辺りを歩いて散策されるはずです。
王宮、マヨール広場、サン・ミゲル市場、プラド美術館、デパート、ショッピング街も全てここから歩いて行ける範囲です。
何んとなく通過してしまうにはもったいない面白い場所なので、せめて写真だけでも撮っていただけるように、予備知識として紹介しました。