マドリードの『ブエン・レティーロ 』幻のスペイン王立磁器 

Luis García, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

こんな素晴らしい焼き物を製造する、スペイン王立の磁器工場があったんです。

スポンサーリンク

ヨーロッパの焼き物

ヨーロッパでは、18世紀に入るまで、磁器を焼くことができませんでした。

磁器を製造するには、カオリンという粘土鉱物が必要で、窯の温度は1300℃以上、燃焼時間は17から18時間、これらの条件が揃って、磁器を焼くことができますが、これらの組み合わせがなかなか解明されず、磁器はアジアから輸入していました。

『白い金』と言われるほど、真っ白で、つやがあり、薄くて硬度なアジアの磁器を所有することは、ヨーロッパの王侯貴族にとっては大変なステータスシンボルで、よく国王の肖像画に装飾品として、アジアの大きめの磁器の花瓶などが描かれいるのはそのためです。

中国では7世紀くらいから、日本では17世紀初めごろから磁器の製造は行われていました。

日本では有田焼が日本における磁器の起源と言われ、伊万里の港からヨーロッパに送られていました。

マイセン

ヨーロッパで、初めて磁器製造に成功したのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世。

自分の領土内で何とか磁器を焼きたいという強い希望で、ベドガーという錬金術師(錬金術師はちょっと長くなるので説明は省きますが、この場合、今でいう科学者みたいな人)に磁器を焼くための粘土の成分や温度などの研究をさせ、1709年に、初めて白い磁器製造に成功しました。

アウグスト2世の居住地から近い、川沿いの街マイセンの丘の上のアルブレヒト城に磁器工場を作り、この秘密が外国に漏れないように、作業に携わる人たちは、この城に軟禁状態でした。

アルブレヒト城 マイセン

その後、王は、日本の柿右衛門のような作品を特に好み、1720年頃には、白地に東洋風のデザインの絵付けも始めました。

1740年マイセン焼き (伊万里焼の影響が見られる) Rufus46, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

カポディモンテの磁器

スペインでは、フランスブルボン王朝のフェリペ5世の息子、フェルナンド6世が跡継ぎを残さすに亡くなったため、弟であるナポリ・シチリア王カルロス3世が王位を継ぐことになりました。

カルロス3世

カルロス3世は1735年ナポリ・シチリア王として即位し、1738年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の娘、マリア・アマリアと結婚しました。

マリア・アマリア

政略結婚ではありましたが、とても仲の良い夫婦で、13人もの子供に恵まれました。

このマリア・アマリアは、先に話した、マイセンで焼き物工場を立ち上げた王の孫娘で、芸術に造詣が深く、お嫁入の際、マイセンの磁器を持参しました。

これを気に入ったカルロス3世は、自分もナポリに磁器工場を作ることにしました。これがカポディモンテ窯で、1743年から1759年まで工場は運営されました。

その後1759年カルロス3世がスペイン王としてナポリを離れるにあたり、カポディモンテ窯のメインの陶芸家、および約5トンの磁器ペーストを含む約40人の主要な労働者をスペインに連れて行きました。

ナポリのカポディモンテは、その後息子のフェルナンドが引き継ぎますが、もともとの職人たちは、スペインに行ってしまったので、一旦閉鎖され、最終的には、イタリアのトスカーナの窯元ジノリ社の3代目カルロ・レオポルドに権利を買われてしまいます。

≪ジノリ≫
1735年創業、マイセンに負けない磁器をという事で始まった、イタリアで初めて磁器製作に成功したジノリ。後にリチャード社と合併でリチャードジノリとなる)
ジノリ3代目のカルロ・レオポルドが権利を買い取った後、カポディモンテの焼き物の伝統は受け継がれ、現在もリチャードジノリ社のシリーズの一つとして、制作されています。

ただ、イタリアでのカポディモンテの焼き物は、正式には1743年から1759年の16年間のものがそう呼ばれ、現存しているのはごくわずかのようです。

ジノリ製 カフェテラ 1745-1750年ごろ

スペインの ブエン・レティーロ

1759年、スペイン国王に即位したカルロス3世は、マドリードの現在のレティーロ公園内(ブエン・レィーロといい、王家のセカンドハウスのような宮殿があったところです)に焼き物の工場を造りました。

1637年 ブエン・レティーロ宮殿

1760年から工場は稼働を始め、数年の間に外国の王侯貴族たちにも認知されるほどの、素晴らしい磁器を製造していました。

工場は、もともとは周りが濠に囲まれた僧院があった場所、濠はそのまま残し、出入口は一か所のみにして、ブエン・レティーロの焼き物の秘密は厳重に警備されていました。

ナポレオンとの戦争で

19世紀のはじめ、スペイン独立戦争(1808-1814年 フランス のナポレオン軍 VS スペイン+ポルトガル+イギリス連合軍との戦い)と呼ばれる戦争で、ブエン・レティーロの工場は、ナポレオンの兵舎として使われました。

工場があったのは、標高が高いマドリードのなかでも特に高いところ(約666m)で、軍事的にも有利な場所でした。現在世界でも珍しい 『堕天使の噴水』(Fuente del Ángel Caído レティーロ公園内)の辺りが工場があった場所です。≪参照≫マドリードの天使たち(彫刻)

1812年ウエリントン将軍率いるイギリス軍の攻撃で、ナポレオン軍はブエン・レティーロから撤退したのですが、フランス軍が撤退したあと、イギリス軍は工場であった建物を徹底的に攻撃し破壊してしまいました。(1813年10月31日)

スペインの味方であったイギリス軍が、なぜブエン・レティーロの工場を破壊したのかについては、イギリス軍の言い分は、

こういう場所を残しておくと、万が一フランス軍が戻った来た時、もしくは、ほかの招かざる敵が来た時に、また兵舎、基地として使われてしまう恐れがあるので。

ただ、本当は、マドリードのブエン・レティーロの磁器の評価はかなり高く、高級品として需要が多いことがわかっていたイギリス軍は、自国の邪魔になる産業を破壊しておきたかったから、というのが理由だと言われています。

このイギリス軍の工場破壊で、カルロス3世がナポリから持ち込んだ、カポディモンテの焼き物の手法を受け継いだ、ブエン・レティーロの焼き物の秘密は、なくなってしまいました。

その後

スペイン独立戦争が終わった後、1817年、スペイン国王フェルナンド7世は、マドリードのモンクロアに王立磁器工場を設立しましたが、この工場は19世紀の終わり頃に閉鎖されました。

20世紀のはじめモンクロアの工場跡には、焼き物の学校を開校され、現在も運営されています。

モンクロアの焼き物の学校 Luis García, CC BY-SA 3.0 ES via Wikimedia Commons

ブエン・レティーロの作品が見学できるのは、

現存するものが少ないので、見学できる場所は限られています。プラド美術館も6点所有していますが、現在は一般公開していません。マドリードで見学可能な場所は、

●マドリードの王宮(焼き物の部屋)

マドリード 王宮内  CC0, via Wikimedia Commons


●アランフェス王宮

アランフェス王宮内 磁器の部屋 Ljuba brank, CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons

どちらも部屋全体が、焼き物で飾られています。

●マドリードの国立考古学博物館。

1783年以前の花束 国立考古学博物館(マドリード)Luis García, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

ドイツのマイセン、イタリアのリチャードジノリ、フランスのセーブルなど世界的に有名な焼き物がありますが、スペインにも、ブエン・レティーロ工場で製造されていた世界に通用する、磁器があったというお話でした。