ギリシャのクレタ島から、ベネチア、ローマと16世紀ルネサンスの世界で技を磨き、
太陽が沈まぬ大帝国スペインの トレド という小さな街で活躍をした偉大な画家のお話です。
エル・グレコは、ギリシャ人
≪エル・グレコの生涯≫
1541年 | ①ギリシャのクレタ島で生まれる ②東方正教会のイコン画を描いていた時代 |
1567年頃 | 当時のクレタ島は、ベネチア共和国の統治下にあった時代で、ベネチアに行き、 ティツィアーノの弟子として修業をする。ここでベネチア派特有の色彩や、遠近法にとらわれすぎない流動的な表現なども習得。 |
1576~1577年 | ローマに滞在、この間に③西方教会の図像学をそして、巨匠ミケランジェロの作品にもふれ、④マニエリスムの世界へ。 |
1577年 | 太陽が沈まぬ大帝国の時代のスペイン へ。宮廷画家をめざし描いた絵が当時のスペイン(⑤反宗教改革側)の意向に合わず、フェリペ2世に認められず、最終的には⑥トレドの街に定住。 |
1614年 | トレドで73歳で亡くなる |
ギリシャのクレタ島生まれ(本名は、ドメニコ・テオトコプーロス)
スペインでの活動が長いせいか、スペイン人と思われるグレコですが、実際はギリシャ人、本名は、
ドメニコ・テオトコプーロス(Doménikos Theotokópoulos ギリシャ語では、Δομήνικος Θεοτοκόπουλος)という名前です。
ベネチアでなかなか名前が覚えてもらえず、イタリア語でギリシャ人=グレコと呼ばれ、それにスペイン語の定冠詞 EL が付いたもの。(訳す時にはあまり意味はなく EL GRECO =あのギリシャ人)
日本人の私たちが、外国人の名前をなかなか記憶できなくて、”あの外人さん”と呼ぶのと同じです。
ちなみにグレコは作品に自らのサインを残す際には、ギリシャ文字でサインをしています。
下の絵のどこにサインがあるかわかりますか?
この絵はイエスの洗礼式の様子を描いたもので、左手でひざまずいているのがイエスです。そのイエスの足元に白い紙が張り付いているようになっている、そこにサインが残っています。
東方(ギリシャ)正教会 イコン画
かつてローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂したとき、教会も西方ローマカトリック教会と東方ギリシャ正教会とに分かれました。
もともとキリスト教は、偶像崇拝禁止とされていて、形あるもの(例えば神様の像とか)を祈ってはいけません。
え、でも、マリア様とかイエス様の像とか
いっぱいあって、みんなお祈りしてるけど、それは
良いの?
像とか絵は象徴なんです。
そのことによって、イエス様の事を思い、教えを思い、神を
思う事ができる、大事な本体に思いをはせるための、入口みたいなものです。
イエス像をありがたがるだけでは偶像崇拝、でもその先にある本体の
大事なことにつながるのならいいのです。
西方カトリック教会では、”象徴”であるイエス像などを教会に設置するようになっていくのですが、東方正教会では、イコン画がその象徴として受け継がれました。
東方のイコン画もイスラム教徒の影響もあり、一時禁止された時代もありましたが、その後またその正当性を認めました。東ローマ帝国が滅ぼされたあとも、東方正教会の伝統は、東ヨーロッパで受け継がれ、今に至ります。
イコン画とは、こんな感じの絵です。
【イコン画の特徴】は、絵の中に立体感がないこと。表情、感情がないこと。
芸術として鑑賞する目的ではなく、あくまでも大事な本体へたどり着く道具のような扱いなので、写実的じゃなくていいのです。
そのイコン画の伝統のなかで育ったのが ”あのギリシャ人” エル・グレコでした。
カトリック教会 図像学
【図像学とは】絵画や美術の世界には、図像学(イコノグラフィー)というものがあり、これは、例えば、百合の花は純潔の印とか、犬は忠実の印とか、形に意味を付けることによって、それが何を示すのか表現できるようになる。ただの百合の花では、きれいなお花でしかないものが、図像学的には、それで状況を探ることができる。例えば宗教画にはたくさんの聖人が登場するが、その聖人が誰なのかわかるように聖人の生涯で起きた奇跡や象徴的な出来事に関連のある物が決められている。神話の世界でも神々にはそれを象徴する物が決められている。人物を特定するための物をアトリビュートといい、これを知る事で、神話や宗教画は美術としてだけではなく、作品が描かれていた時代のそれらの目的、つまり実用的な役割を果たすことができる。(宗教画を描いていたのは字が読めない人達に聖書を伝えるという、実用的なものだった)
16世紀のイタリアはルネサンスの時代、ギリシャから来たグレコにはルネサンスのテクニックや、また東方ギリシャ教会のイコン画とは違う色彩や、宗教画のルールは新鮮だったはずです。
マニエリスム
マニエリスムとは、イタリア語のマニエラ=手法、様式からうまれた言葉で、ルネサンス時代の巨匠、例えばミケランジェロやラファエロなどの様式、手法を模倣した画家たちの事を、マニエリスムの画家といいます。
ルネサンスの画家たちの模倣だけではなく、完成された美を表現する技術をもちながらも、自然に忠実ではなく、意図的にわざと誇張させて崩していくような画家独自の個性と主張を表現したものでした。
大きな特徴のひとつが、誇張された遠近法や、体を異様にひきのばしたり、ねじったり、不自然さがでてきます。
この聖アンドレス(絵の向かって左)は、イエスの一番弟子ペドロの弟で十二使徒のひとり。
X字型の十字架でギリシャで処刑されたので、この聖人のアトリビュート(人物を特定するためも物)はX字型の十字架。ルーマニア、ロシア、ギリシャ、スコットランドで布教活動をしたので、これらの国の守護聖人です。スコットランドの国旗が青地に白いX十字なのはこのせいです。
この絵は典型的なマニエリスム、体がのびきって、頭が異様に小さいです。8頭身で描くとバランスがいい人間の姿を、わざと13頭身くらいに引きのばしています。
サン・フランシスコの右手が胸のあたりで、中指と薬指がくっついた形になっています。この指の表現の仕方は、グレコの絵には何度も繰り返されます。グレコにとっては、これが手が一番きれいに見える描き方だったようで、グレコのサイン的な役割も果たしています。
グレコのギリシャ文字のサインもありますね。
反宗教改革
グレコがスペインに移ったのはなぜか?一説によると尊敬していたミケランジェロの作品を批判したことが原因ともいわれますが、詳細は不明です。
当時のスペインは、コロンブスの新大陸到達のあとで、南半球にも北半球にも植民地を広げた、黄金期、その太陽が沈まぬ国スペインの宮廷画家の地位は、魅力的なものだったことは想像ができます。
当時のスペイン国王フェリペ2世は、マドリードの郊外に王家の霊廟と修道院と夏の別荘を兼ねた建物(エスコリアル修道院1584年完成)を建築中で、その聖堂の装飾のためにグレコに絵を依頼しました。その絵が、
『聖マウリシオの殉教』
グレコの力作でしたが、国王フェリペ2世とエスコリアル修道院の聖職者たちから、この絵は批判を受けてしまいます。
何がいけなかったのでしょうか?
聖マウリシオは、3世紀のまだカトリックがローマで認められる前のキリスト信者で、ローマの兵隊を率いる軍隊長でした。ローマ皇帝を守るために勇敢に戦いましたが、キリスト信者に対する皇帝の迫害に従うことを拒否したことにより、軍の兵隊とマウリシオは殉教死してしまいました。
この絵では、前方で話し合いをしているのは、マウリシオとその部下で、皇帝の言いなりになるか、もしくは、命を奪われても信仰を貫くかを相談しているシーンです。
そして、その後ろ(向かって左後ろ)では、信仰のために神に祈りながら殉教死する信者の姿が小さく描いてあります。
この当時ドイツから始まった宗教改革で、カトリック教会への抗議の運動がおきる中(カトリックからプロテスタント派の分離)、カトリック教会側でも、本来のカトリックの教義を再確認して、悪いとこらは改善して、プロテスタントの批判に対応できる基盤固めをしていこうという時代でした。
この中で、プロテスタント側が抗議をしていた、巡礼や、聖遺物、聖人の崇拝などは、カトリック教会では否定せず霊的に大事なものだという伝統的なとらえ方を強化しました。
こうしたカトリック教会の動きを反宗教改革(対抗宗教改革)といいます。
その反宗教改革の動きを、いち早く取り入れたのは、スペインなのです。
この絵がどうして国王フェリペ2世と、エスコリアル修道院の聖職者たちに受け入れられなかったかというと、彼らが当時求めていたのは、絵を見て、命を懸けて信仰を貫いた聖人たちの姿を見て、信仰心を高めてもらいたい、聖人は素晴らしい、信仰は、神は素晴らしいと祈りを捧げたくなる気持ちを引き起こすような絵です。
少なくとも、後ろに描かれた処刑のシーンを前方に描くべきで、どうしようかと悩んで相談している姿が前方ではいけないのです。そいて、マウリシオの様子も、平然としていますが、もっとドラマチックな聖人の姿を描いてほしいのです。
この絵は、フェリペ2世からは、美術品としては素晴らしいと、評価を受けた絵ですが、カトリック教会の一番の擁護国である当時のスペインでは、受け入れられませんでした。
この作品の中には、3つの違った時間空間が描かれています。一番奥はローマ皇帝とローマ軍の行進、その手前の処刑のシーン、そして前方の相談のシーンです。こういう違った時間を同時に描く方法を「異時同図法」といいます。
ちなみに、当時のスペインが求めていたのは、こんな感じの絵です。
トレドへ
ローマ法王パウロ3世の家系のファルネーゼ家は、芸術庇護でも有名で、当時ローマのファルネーゼ宮殿には、芸術家が集まり、そこにはスペインの聖職者や芸術家の出入りもありました。そこから人脈で、スペインのトレドの聖職者上層部の息子、ルイス・デ・カスティージャとグレコは知り合います。
ルイス・デ・カスティージャはグレコの友人であり後援者で、トレドの修道院の祭壇画の仕事の話をグレコに持ち掛け、そこから、グレコが本格的にトレドで活動するようになったのだろうという説もあります。
国王フェリペ2世が、それまでスペインの首都が置かれていたトレドの街から、マドリードに首都を移したのが、このグレコの時代です。
首都がマドリードに移った後も宗教の中心はマドリードには移らずトレドはスペインカトリックの総本山で、教会を飾る宗教画の依頼は後を絶ちませんでした。
グレコがスペイン(トレド)で依頼された最初の作品だろうといわれるのが、
『三位一体』
サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院の祭壇画として依頼された、イタリアからスペインに来たばかりの頃に描いた作品です。
三位一体とは、父と子と聖霊、この3つが神であり、一体であるとするカトリックの教義でも特に大事なもの。
ベネチア派の影響がはっきり出ている色と光が特徴です。(そしてまだこの頃はあんまり体がのびていません)
これとほぼ同時期に依頼されたのが、トレドの大聖堂のために描いた、
『聖衣略奪』
そして、グレコの最高傑作が、
『オルガス伯爵の埋葬』
『聖衣略奪』と、『オルガス伯爵の埋葬』は、どちらもグレコの実力と名声をスペインで確固たるものにした作品ですが、作品の納期が遅くなったことや、カトリックの図像学的に不適切な部分があることなどを理由に、どちらも依頼主と画家の間で、絵の代金をめぐってかなりもめた作品です。
宗教画が有名なグレコですが、肖像画も描いてます
グレコの作品は圧倒的に宗教画が多いのですが、肖像画も有名です。
『胸に手を置く騎士』
グレコを支えてくれた後援者たちの一人だと思われる騎士の肖像画、その衣装や、落ち着きのある態度、金で装飾された剣、そして、ちらっと見えている金のチェーンのペンダント、かなり裕福な人物であったことが想像されます。
有名な『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスとグレコは同世代の人物で、セルバンテスは、レパントの海戦で左手を負傷していて、この騎士の左手が、肩のあたりから不自然なため、モデルになったのは、セルバンテスではないか?という噂もあるようです。
絵の主人公の身元より、この絵が興味深いのは、この騎士の視線です。よく見ると、右目はしっかりとこちらを(絵を鑑賞している私達を)見ていますが、左目は生気をなくしていて、こちらを見ているけれども、見ている先は鑑賞者ではなく、どこか、異次元を見ているような視線なのです。
ドラマチックな表現が多いグレコの作品の中にあって、この絵は、全く違った空気が流れています。
この作品の色使いや、無表情でべったりした立体感のない感じは、初めにお話した、イコン画の特徴ですが、イコン画とも違う、グレコの独特の世界だと思います。
肖像画と言えば・・・
グレコは、作品の中に何枚か自分の顔を描いています。
ここで紹介した、『聖マウリシオの殉教』と『オルガス伯爵の埋葬』の中にもグレコは自分を描いています。どちらの絵も、絵の中の登場人物と、私たちがしっかり目が合うのは2人、そのうちの1人、黒髪にひげの人がグレコです。
グレコのお墓
グレコが最後の描いたと言われる作品が、
『羊飼いの礼拝』
グレコの弟子、ルイス・トリスタンによると、「グレコは死ぬ間際までこの絵を描いていた」そうで、
トレドで一番初めに仕事の依頼を受けた、サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院のために描かれた作品です。グレコ本人が、亡くなる2年ほど前に、祭壇の絵を描く代わりに、自分のお墓は、この修道院に埋葬、管理してほしいという希望だったそうです。
グレコの息子、ホルヘ・マヌエルは、絵では活躍できませんでしたが、建設・設計の仕事でトレドで名前を残しています。トレド旧市街地の市庁舎の設計にも携わっています。
このグレコの息子が、グレコの希望通り、父親の墓をサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院に埋葬をしました。
が、その数年後(1618年)、修道院側とグレコ側の契約のミス?で、修道院側からグレコのお墓を撤去するようにと希望され、その後、息子のホルヘ・マヌエルの設計の、トレドの別の修道院へ移すことになったとか。移動先は、サン・トルクアト修道院。
このあたりから、記録が定かではなく、実際にお墓を移動させたのか、そのままもとの修道院に埋葬されたままなのか不明です。
現在、グレコのお墓は(一応?)サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院、トレド旧市街地の静かな一角にグレコは眠っているはずです。