現在のような列車や車での運送業が始まる前は、人と動物が 荷物を運んでいました。
彼らをスペインでは、アリエロと呼びました。アリエロのなかでも、マラガテリア地方のアリエロたちは、特に信頼されていた人達で、また独特の文化と習慣を持ち続けた人達です。
カスティージャ イ レオン州 > レオン州 > レオン
マラガテリアとは、地方の名前です。スペイン17州のひとつ、カスティージャ イ レオン州、9の県からなるスペインでいちばん広い州です。
9の県のひとつがレオン県、レオンの街があります。かつてのレオン王国の都で、街の起源は古代ローマ帝国時代にまでさかのぼり、ラテン語のレヒオ(軍団)が街の名前の由来と言われるとおり、ローマ第七軍団が拠点を置いた場所でした。
● レオンの街には、13世紀に建設が始まった大聖堂があり、内部のステンドグラスは世界的にも有名なものです。
● そして、カタルーニャ州出身のガウディがカタルーニャ以外に残した作品のひとつ、カサ デ ロス ボティネスがあります。現在は銀行として使われています。
レオンの街から車で50kmほど西に行くと、アストルガという街があります。
もともとは先住民アストゥール族が住んでいたところでしたが、初代ローマ皇帝アウグストゥス帝の時代、この地方の最後の先住民であったアストゥール族が破れ、そこにローマの拠点としてできたのが街の起源でした。
この地方にローマ帝国が拠点をおいた大きな理由は、金でした。
アストルガからさらに西へ車で1時間ほどのところに ラス・メドゥラスという所があり、そこでは、先住民の時代から金鉱山があることがわかっていました。
その金の集積場として使われたのがアストルガの街です。
その後スペインにカトリックが入った後、特に大事な教会区となり、スペインで特に大事な司教座のひとつが置かれるほどの、力を持つことになっていきました。
● アストルガの街にも、実はガウディの設計により建てられた、司教館があり、現在内部は、巡礼博物館になっています。
銀の道 と 巡礼の道
【銀の道】
アストルガから南下すると、メリダという街があります。ここもローマ帝国時代の大事な拠点の街でした。
アストルガ~メリダ間、約500㎞にわたるこの間の道は、当時のスペインでは特に大事な主要幹線、アストルガに集まる金を運ぶ道でもあり、権力拡大に伴う人口の増加もあり、様々な商業の流通の道でもありました。
このローマ時代に舗装された道を、VIA DE LA PLATA =銀の道 と呼んでいます。
PLATAは銀の事なのですが、銀を運んでいたわけではなく、この名前は後世につけられたもの。
アラブの言葉、AL-BALAT =石で舗装された道 からきたものといわれます。
【巡礼の道】
スペイン北西部ガリシア州、サンチャゴ デ コンポステーラ、ここは、9世紀にイエスキリストの12人の弟子の一人、聖ヤコブの骨が発見され、その時から今日に至るまで世界中から巡礼者がお参りに集まる、カトリック三大巡礼地のひとつです。中世の時代でも年間数十万の巡礼者が歩いて、この地を目指しました。
巡礼の道はいくつもありますが、そのうちのひとつは、“巡礼 フランスの道 ” と言われる、フランスから入ってくる道、言い換えれば、フランス以外の外国からの巡礼者も入ってくる道です。
巡礼道を通って、人も品物も行き来していた、スペインだけではなく、ヨーロッパの文化、商業の交流点でもあったところです。その巡礼フランスの道と先ほどの銀の道の交わるところが、アストルガの街でした。
このように、商業面でも宗教面でもとても大事なこの地方、この街に色んな物が集まり、色んなところへ運ばれていきました。
この地方の大事な産業のひとつだったのが羊毛産業です。
羊毛で有名なメリノの羊はスペインが原産地、なかでもレオン地方はその中心地でした。
かつて、スペインの王様たちは、メリノの羊を国外に出さないように、戦争に行く時も羊を一緒に連れて移動したと言われるくらい、大切にされました。その羊産業も、これらの道を通って発展して行ったのでした。
マラガテリア地方
アストルガの近郊にマラガテリアという地方があります。
ここの住人がマラガトと言われる人達です。マラガテリアでは、その周辺で商品の売買、そしてそこでキャンプをし寝泊まりをしたりと、商業コミュニティが形成されました。
マラガトの起源は、一説によると、ローマ帝国に滅ぼされたアストゥール族の生き残り、また違う説だと、北アフリカのあたりからの民族の末裔と、はっきりしないようです。
他の地方とは違う習慣や文化を受け継いできていて、中でも変わった習慣の一つがCOVADAという、父親になる男性の疑似妊娠・陣痛体験のような、妊娠中の女性と同じ症状と体験をする習慣があったりと、独自の文化をもった、ちょっと謎の人達でした。
経済活動のコントロールとともに、羊毛産業、そしてマラガトの人達のもう一つ有名な仕事、それがアリエロ=運送業でした。
ローマ帝国支配のあと、スペインは西ゴート族、イスラム教徒軍と、いくつかの民族の支配下に置かれた時代がありました。国土再征服(レコンキスタ)によって少しずつ領土を取り返していき、その初めの中心勢力だったのがアストゥリア王国、徐々に勢力を拡大して、10世紀になると、アストゥリア・レオン王国となり、その首都はレオンへと移されました。そして、その頃から人口が増え、経済活動も盛んになり、運送業アリエロが誕生することになりました
マラガト達が中心となって、はじめは、この地方を中心に、その後範囲を広げ、北のガリシアの海まで、行きはアストルガ地方の肉、肉の加工製品を、帰りはガリシアの海の幸を運んできました。
マラガテリア以外にもアリエロたちは存在しましたが、マラガトの人達のまじめで誠実な仕事ぶりは、” 命をかけて荷物を守る人たち ”といわれ、王様たちからも信頼を受けるほどになり、14世紀には、街に入る時にアリエロ達が払う税金(ポルタスゴ)を王家から免除されました。
この話は、他の地方のアリエロ達にも伝わり、彼らはマラガテリアに移り住み、マラガテリアのアリエロの特権である税金免除の恩恵にあずかり、それによって、ますますこの地方の経済活動は大きく発展していきました。
マラガテリアのアリエロ達は、例えば、王家への献上品や、金など特に大事なものを運ぶ時、通常の倍以上の賃金で請け負いましたが、それでも王達は、彼らにその仕事を任るほど、絶大な信頼をうけていました。
アリエロ達は、ガリシアのベタンソスの港から、マドリードまで500㎞ちょっと、約12日間かけて塩漬けにされた魚を運ぶため、冷蔵庫代わりに井戸を掘って、冬の間に雪を集め、その中で商品を保存し、腐らないように工夫をしたそうです。
18世紀になると、それまでのラバに代わり、馬車で荷物を運ぶようになり、マドリードまで4日で行く事ができるようになりました。
こうして、汗をながして、命がけで働いて得た、信頼と経済力によって、マラガテリアのアリエロ達は、家では女性たちが、羊毛を使った製品を生産し、また多くの子孫を残しは、この地方の豊かさの象徴のような存在でもありました。
伝統的なマラガテリア地方の家は、入り口が馬車も入れるくらい大きく、中庭に直結していて、2階部分が家族の生活空間になった、石造りの家です。
今でも昔ながらの街並みを残した村が存在していて、女性たちが作業しているところなども残っています。
19世紀になっても、スペインでは舗装された道はそれほど多くはなく、アリエロ達が、デコボコの山道を、昔ながらに荷物を運んでいました。
19世紀の後半になり、いよいよ鉄道による運送が始まり、アリエロ達の生活も大きくかわっていきました。
アリエロとしての仕事が激減したため、一部のマラガト達は、この地方の食材プラス、ガリシアからの海の幸を使った料理を出すレストランを始めこの地に残り、もしくは、季節労働者として、マドリードや、ガリシアで魚屋として働き、夏は地元に戻って、家族と農業を続けたり、または、ガリシア、マドリード、アメリカにまで移住していったマラガトもいました。
南米、パタゴニアの最初の移住民は、マラガト達で、いくつかの街をつくり、また、ウルグアイでもマラガトが作った街が存在しています。
食文化 コシードマラガト
コシードは、スペインの伝統的な料理のひとつで、とくにこのマラガトのコシードは有名です。ひよこ豆、キャベツ、ジャガイモ、数種類の肉や、チョリソなどを煮込んだ物で、煮込んだスープ、野菜と豆、肉を食べます。
マラガテリア以外の地方では、スープから、次に野菜と豆、肉の順に食べるのですが、マラガテリアでは、その逆で、先に肉を食べてその後に煮込んだ野菜と豆を、そして最後にスープを飲みます。
この順番は色んな説があるようですが、一説には、かつてナポレオン軍が攻めて来た時、いつ攻めて来てもすぐに戦場に向かえるように、念のため先に肉から食べておくようになったとか。
独自の衣装、音楽、祭り、習慣、食文化と色んなものを残してきた、マラガトの人達。
かつてのアリエロとしてのマラガトはもういなくなりましたが、石の家も、食文化もいまだに、この地に息づいています。