スペイン巡礼の道 カミノ・デ・サンティアゴ 

Andre_Grunden Pixabay

スペインの北西部、ガリシア地方のサンティアゴ・デ・コンポステーラの街。

ここは、エルサレム、バチカンと共に、カトリックの三大巡礼地の一つ。

2021年(今年)は、特別巡礼年です。

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イエスの12人の弟子の1人サンティアゴ

イエスが布教活動を始めると、すぐに数人の弟子ができましたが、なかでも12人の弟子たちは、イエスのメッセージを世界に広めていくことになります。その12人の弟子の1人がサンティアゴ(日本語では、ヤコブ)でした。

サンティアゴ

サンティアゴは、現在のスペイン北西部のガリシア地方を中心に、この地で5~6年間布教活動をし、その後エルサレムに帰ります。そこで、邪教を広めユダヤの王を脅かした罪で、処刑されてしまいます。

サンティアゴがガリシア地方で布教活動をしている頃から、すでに彼を慕うテオドロとアタナシオという弟子がいて、処刑されたサンティアゴの遺体を船で運び、紆余曲折の末たどり着いたのがスペイン、ガリシア地方のパドロンの村でした。

サンティアゴの遺体を乗せた船がたどり着いた場所にある花崗岩の柱
パドロン村のサンティアゴ教会内

どこにサンティアゴの遺体を埋葬していいのか困惑し、神のご意志に従って・・・と、遺体を運ぶ牛が立ち止まったところは、リブレドンという所で 湧水が流れ出していた場所、そこに遺体を埋葬しました。

時は流れて、9世紀、パイオという男が、人里離れた場所でひっそりと暮らしていました。
ある日、あまり人も通らないような道なき道を歩いていると、突然、藪のなかに星の光が降り注ぐ場所を見つけました。

イエスの弟子のサンティアゴの遺体が、ガリシア地方に埋葬されたという話は、人伝えにパイオも耳にしたことがあり、あまりにも不思議な光を前に、「ここがあの謎とされていた、サンティアゴ様の埋葬された場所ではないか?」 と思いました。

きっとそうに違いないと思ったパイオは、そこから約17㎞程離れた、パドロンの街のテオドミロ司教にそのことを話に行きました。

テオドミロ司教は、自らパイオに導かれその場所を確認に行きました。

外観はかなり粗末なその中は、驚くばかりの見事なモザイクの内装で、祭壇のようなものがあり、その下に、棺がありました。祭壇の下にあるお墓は、大事な人の遺体であることは間違いなく、内部を調べ、これは、あのサンティアゴ様に間違いないと確信します。

事の重大さに恐れをなしたテオドミロ司教は、すぐにこの事を王アルフォンソ2世に伝えます。

アルフォンソ2世はすぐにこの地を訪れました。(アルフォンソ2世のこの訪問が巡礼第一号と言われます)
大衝撃を受けた王は、その場所に礼拝堂を造り、信者がお参りできるようにしました。

この話は、スペインだけではなく、ピレネー山脈を越えてフランスに、そして、ローマ法王レオ3世の耳にも届き、ヨーロッパ中にそして、世界へと広がって行く事になりました。

9世紀に礼拝堂が造られたときは、まだこの辺りは人里離れた寂しい場所でしたが、10世紀になると、集落ができ、小さな礼拝堂を教会へと建て直しました。この頃からこの地方を、サンティアゴ・デ・コンポステーラと呼ぶようになりました。コンポステーラは、スペイン語のCAMPO DE LA ESTRELLA(星の光が降り注ぐ場所)という意味。

その小さな教会も一度イスラム軍に攻撃され壊れてしまうのですが、お墓は無事で、その後11世紀から13世紀にかけてもう少し大きな教会を造り、それが現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の基盤になっています。(最終的には18世紀に現在の形になりました)

こうして9世紀から始まった、サンティアゴ様のお墓参りが、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の始まりです。

サンティアゴ様のお墓があるカトリック三大巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂 
Yearofthedragon, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

その当時のスペインの歴史的背景 

スペインでは8世紀のはじめから、イスラム勢力の侵略により、戦争をしていました。

イスラム勢力が攻めてきたころのスペイン(イベリア半島)は、ローマ帝国支配のあとを継いだ西ゴートという民族が支配権を握り、現在のトレドの街に首都を構えていましたが、イスラム軍にトレドの街も攻め落とされ、南から北へ北へと攻撃され、当時の西ゴートの支配者たちが何とか体制を整えて拠点を置いて反撃をはじめたのが、スペインの北西部、ガリシアよりもう少し東寄りのアストゥリアス地方でした。

ちなみに、このイスラム軍の侵略の事コンキスタ、スペイン軍の反撃(再征服)の事を、レコンキスタといいます。イスラムとの戦争レコンキスタは、土地を取ったり取られたりで難航し、最終的には、このレコンキスタは15世紀まで続く長い戦いになっていきます。

そのアストゥリアスの王が、アルフォンソ2世。その後を継いだのが、ラミロ1世。このラミロ1世、844年におきたクラビーホの闘いの前夜、白馬に乗ったサンティアゴ様が、イスラム軍をやっつけて勝利を約束してくれるという夢をみて、そのことを兵士に話し、勇気づけられたキリスト教徒軍が勢いを得て、「サンティアゴ!!」の声と共に勝利をおさめます。

イスラム軍と戦うサンティアゴ

護り神が欲しかった

イエス様の弟子のお墓が発見され、それがローマ法王にも認められ、アストゥリアス(王国)がカトリックの大事な場所になり、それによってキリスト教徒軍の士気があがり、その上大事な決戦のまえに夢枕でサンティアゴ様が勝利を約束してくれた・・・。

ここまでの話で、どこまで信じていいのやら・・・? と、思ってしまいますが、イスラム軍との長引く戦争の中、兵士を勇気づける何かが欲しかったのは、おそらく間違いなかったでしょう。そこでサンティアゴ様を担ぎだして、(と言ったら信者の方がに怒られそうですが、)護り神にまつりあげてしまったのだと思われます。

クラビーホの闘いだけではなく、その後もイスラム軍と戦うサンティアゴ様は、スペインの護り神となり、現在もスペインの国を護る守護聖人は、サンティアゴ様です。

サンティアゴ巡礼の決定打

その後、スペイン国内、ポルトガル、イギリス、そしてピレネー山脈を越えて多くの国からサンティアゴ巡礼道が続いていきました。

巡礼は、宗教的目的ではありますが、その街道は人が行き来をし、同時に外国の文化も入ってきて、また人が集まるところでは街も活気づき、必然的に経済活動もあり、巡礼によってもたらされる利益は大きく、巡礼の道がある各地方の支配者たちは、自分の領土内の巡礼道と巡礼者を保護しました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂も、立派な教会を造るには巨額な費用が必要でしたが、カトリックの三大巡礼地の名にふさわしい大聖堂を造ることは、それだけ経済効果もあったのです。

サンティアゴ巡礼の決定打になったのは、1120年に法王カリストゥス2世が決めた、特別巡礼年
これは、サンチアゴの日になっている7月25日が日曜日に当たる年に巡礼を行った者は、それまでの罪が全て許されるというもので、ますます巡礼者の数が増えていきました。

7月25日が日曜日になるのは、11年、6年、5年、6年、11年・・・おきにまわってきます。
前回は2010年でした。+11年で、今年2021年、次は6年後の2027年・・・です。

特別巡礼年には、いつも閉まっている、聖なる門(Puerta Santa)が、開けられ、その門から教会に入るための行列ができます。

「聖なる門」から入るための行列 Reservas de Coches, CC BY 2.0 via Wikimedia Commons

免罪の門

サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の「聖なる門」は、特別巡礼年だけ開けられる門ですが、実は同じようにこの年にだけ開けられる、(聖なる)免罪の門が、他にも存在します。

免罪の門 サンティアゴ教会 ビジャフランカ ・デル・ビエルソ José Luis Filpo Cabana, CC BY 3.0 via Wikimedia Commons

これは、巡礼の途中、病気やケガなどやむを得ない理由で目的地のサンティアゴ・デ・コンポステーラまで旅を続けられなくなった巡礼者の要請があって、認められた場合、巡礼街道途中のビジャフランカ・デル・ビエルソ村のサンティアゴ教会の免罪の門が代わりの役割を果たしてくれるというもので、特別巡礼年だけ開けられます。(1年間開けっぱなしではなく、旅を途中で断念する巡礼者の依頼があった時だけ)

ビジャフランカ・デル・ビエルソ村は、カスティーリャ・イ・レオン州のレオン県で、目的地であるガリシア州の手前、これより先は峠道なども多く、巡礼者を安全確保のための特権を与えられた場所という事で造られた村がこの村。

1999年は6人、2004年は4人、2010年は48人が旅の途中断念し、この門をくぐって、巡礼免除となったそうです。(資料:Diario de León )

巡礼の道 

カミーノ・デ・サンティアゴ

スペイン語でカミーノは、のことです。

巡礼の道のことをカミーノ・デ・サンティアゴ(サンティアゴの道)と言いますが、スペイン語でEl Camino=サンティアゴ巡礼路のこと。

サンティアゴ巡礼路は、ユネスコの世界遺産にも登録されていて、同じく世界遺産である日本の熊野古道とサンティアゴ巡礼路は姉妹古道になっています。

larahcv Pixabay

ルート

どこから歩いても、それが巡礼の道になるのですが、いわゆる巡礼の道と言われる人気がある道は、6本の街道です。

1.フランスの道 この道がおそらく一番人気がある道です。中世においても人気のあったこの街道沿いには、当時の教会や、教会美術品などが数多く残っています。街道沿いの街も、観光地としても有名な街もあれば、畑の中にポツンとロマネスク様式の教会があったりといろんな意味で楽しめる道。この道を歩く巡礼者が多いため、各街の巡礼用のアルベルゲ(巡礼宿)など施設も他の道より整っています。フランス国境の街サン・ジャン・ピエ・ド・ポーから、ピレネー山脈を越え、パンプローナ、ブルゴス、レオン、アストルガなどを通過してサンティアゴまで780㎞

プエンテ ラ レイナ aherrero, CC BY 2.0 via Wikimedia Commons

2.北の道  この道は、スペインの北側の海岸と山を抜けていくコース。海岸といっても、巡礼路は海岸より山側なので、海を見ながら歩く順路は多くはありません。
スペインの北側のこの地区(バスク州~カンタブリア州~アストゥリア州~ガリシア州)は、グリーンスペインと言われ、一般的に持たれるスペインの気象環境のイメージとは違い、あまり乾燥した地区でもなく、緑も多い自然豊かな地方、スペイン政府観光局でも近年特に力を入れて観光のアピールをしている地方です。比較的穏やかな気候ですが雨はスペインの中では多い地方。国境の街イルンからサンティアゴまで840㎞

3.プリミティボの道 この道が巡礼第一号の道と言われる道です。9世紀にサンティアゴのお墓が発見され、司教からその事をきいたアストゥリアスの王アルフォンソ2世が、同時のアストゥリアス王国の首都であったオビエドの街から、サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうために通った道で、途中メリデの街でフランスの道と合流します。

4.ポルトガルの道  リスボンを出発、全行程の8割がポルトガルで、ガリシアに入って、サンティアゴの遺体を乗せた船がたどり着いたパドロンを通過します。リスボンからだと615㎞、途中のポルトからはじめる巡礼者も多いようです。

5.イギリスの道  イギリスから船でガリシアに入り、フェロールから約115㎞で目的地なので、ゆっくり一日20~30㎞歩いて4~5日で巡礼ができます。

6.銀の道 古代ローマ時代につくられた古い道で、銀やその他の品物を運んでいた商業ルート、アストルガからフランスの道と合流します。

クレデンシアル(巡礼手帳)

巡礼の証明書をもらいたい場合は、クレデンシアルという巡礼手帳を先に準備をして、巡礼の途中立ち寄った教会や、巡礼宿、市役所、学校などでスタンプを押してもらいます。最終的に巡礼を終えて巡礼の証明書をもらう際には、徒歩の場合100㎞、自転車の場合200㎞以上の距離を歩いた(もしくは自転車で走った)ことを証明する必要があるので、その時にこの巡礼手帳を提示します。スタンプは1日2か所は必要です。

クレデンシアル(巡礼手帳)

巡礼手帳は、単なる旅の記録というだけではなく、巡礼者の身元保証書でもあり、アルベルゲと言われる巡礼宿に泊まるにはこのクレデンシアルが必要です。

クレデンシアルは有効期限はないので、今年はこの距離、また翌年に続きを歩くという時にも、そのまま使用することができます。

クレデンシアルは、巡礼路上の教会や、関連の教会、巡礼友の会などでもらえます。日本にも≪日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会≫があります。

(※巡礼証明書をもらうための条件や必要事項は、巡礼を始める前に各自確認してください)

巡礼証明書
jonathan jacobi, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

ホタテ貝

巡礼者は、ホタテ貝のマークを目印に巡礼路を歩きます

Websi Pixabay

サンティアゴ様のシンボルもホタテ貝、彫刻や絵画ではサンティアゴ様はホタテ貝を身に着けています。

ホタテ貝がサンティアゴ様と巡礼のシンボルになったのは、色々説がありますが、

1.サンティアゴの遺体を運んできた船にホタテ貝がたくさん貼りついていた
2.イエスの弟子になる前は漁師だったサンティアゴ、ホタテ貝をとっていた
3.巡礼地のガリシア地方の海で名産のホタテ貝、巡礼に行った記念に持ち帰った などなど。

おそらく3の理由が一番納得できる理由だと思います。巡礼は、今でこそ自国から飛行機でスペインまで飛んできて、もしくはガリシアの近くまで列車できて、それぞれの可能な距離を歩いて巡礼をして、帰路は100%何かしらの交通手段を使って帰りますが、かつては歩いてきて、同じ距離を歩いて帰るというかなり命がけの旅でした。

行きたくても体調不良で行けない人もたくさんいたはずで、そういう人たちへのお土産代わりにもなったのかもしれません。

また、裕福な人たちの中には、お金を払って、代理巡礼を頼む人もいたそうで、その場合本当に行ってきた証明にもホタテ貝を持ち帰ったという説もあります。

そして、パスポートもない時代、言葉も通じない外国人の身元証明の代わりとして、ホタテ貝=巡礼となっていったのかもしれません。

guillermo gavilla Pixabay



巡礼路の標識もホタテ貝、街道にはホタテ貝をモチーフにした道しるべの標識が設置されていて、もしくは、標識もないところでは、木の幹に黄色いペンキで矢印が書かれていて、標識を見つけるたびに少しづつ近づく目的地を目指します。

larahcv Pixabay

ホタテ貝以外で巡礼のお決まりグッズだったのが、杖とひょうたんの水筒でした。
今でも巡礼者の多くは、ホタテ貝と杖をお守り代わりに身に付けて巡礼路を歩いています。(水筒はさすがにペットボトルになってしまいましたが、ミニひょうたん身につけて歩きます)

Barbara Bumm Pixabay

カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)

12世紀、サンティアゴ崇拝者でもあったローマ法王カリクストゥス2世の時代に、巡礼のためのガイドブックが制作されました。カリクストゥス写本と言って、全5巻、サンティアゴの奇跡や、巡礼地の地理案内、芸術、現地の風俗までが解説されているものです。

巡礼のピークと言われたのが12世紀ごろ、西の果てコンポステーラをめざして、現在のような情報網はなく、ほぼ手探りで旅をしていた時代でしたが、年間数十万人の巡礼者が歩いていた街道。

こういった巡礼案内の本も需要があったのでしょう。(ただ、その時代に、いったい何人の人がこの本を手にすることができたか・・・は大いに疑問ですが)

まとめ

ガリシア州の観光アピールの成果もあり、1999年の特別巡礼年の頃から巡礼者の数はまた増えています。前回の特別巡礼年(2010年)の巡礼者の数は272,703人、2019年が347,578人と30万人を超える人が巡礼路を歩きました。

今年(2021年)は特別巡礼年、本来ならば今年も多くの人がサンティアゴ・デ・コンポステーラをめざして歩くことになったはずですが、コロナ禍の影響で、今年は難しいかもしれません。

ローマ法王の特別な許可がおりて、今回の特別巡礼年は2年間(2021年~2022年)です。

この年だけに開けられる聖なる門(Puerta Santa)は、2020年12月31日に開けられました。

多くの方が安心して巡礼に行ける日が、はやく戻って来ることを心から祈ります。

聖なる門 PUERTA SANTA
MarisaLR, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons