17世紀のスペイン国王フェリペ4世の騎馬像。
マドリードの王宮前の広場、オリエンテ広場の中央に置かれるこの騎馬像を制作するのに、いろんな人が関わっています。
ベラスケスや、ガリレオ・ガリレイも関わった作品です。
フェリペ4世騎馬像
17世紀スペイン国王フェリペ4世は、父であるフェリペ3世の騎馬像と同じような騎馬像を、さらに、それよりももっと見栄えのする技術的にも完成度の高い騎馬像を希望しました。
こちらは、フェリペ3世騎馬像(マドリード マヨール広場)
(フェリペ3世のブロンズ像は、当時人気の彫刻家ジャン・ボローニャが制作をはじめ、その弟子であるピエトロ・タッカが完成させた物で、イタリアのフィレンツェで造られました。)
国王のこの希望をうけて、当時国王の代理、絶大な信頼を受けていた「寵臣」(valido)のオリバーレス伯爵が、かつて存在した北イタリアのトスカーナ大公に、スペイン国王フェリペ4世への贈り物として要請したもので、フェリペ3世騎馬像にも携わった、イタリアの有名な彫刻家ピエトロ・タッカの作品です。
作品が依頼された際、1628年にルーベンスがスペイン滞在中に描いた【フェリペ4世騎馬像】と、先に制作されたフェリペ3世騎馬像をそのモデルにすることが決められました。
こちらがそのルーベンス作のフェリペ4世騎馬像(のコピー)で、これが彫刻家ピエトロ・タッカに送られたものです。↓↓↓↓↓↓
2つのブロンズ像の大きな違い
フェリペ3世と、その息子フェリペ4世の騎馬像の大きな違いは、馬です。
フェリペ4世の騎馬像は、馬が2本の後脚だけで立っている姿になっています。
これは、当時としてはとても斬新なスタイルで、オリバーレス伯爵が、王の期待に添えるように、技術的に難しいことはわかっていながら、2本脚の馬を操る王の姿で像を造るように注文したのでした。
彫刻家ピエトロ・タッカは、1635年から作業にかかり、ルーベンスの絵だけではなく、スペイン国王の顔や髪形、姿、衣装などがもう少し詳しくわかるような見本をスペイン側に要求します。
そこで当時のスペイン王家の宮廷画家ベラスケスの絵(のコピー)と、またベラスケスの絵以外にも、スペイン人彫刻家フアン・マルティネス・モンタニェスに国王の胸像を彫らせ、それぞれがタッカの元へと送られました。
そのベラスケスの絵がこちらです。
この絵は、もともとベラスケスがフェリペ4世に依頼された騎馬シリーズの1枚で、当時建築中であったブエンレィーロ宮殿(王のセカンドハウス兼レクレーションのための宮殿)の諸王国の間の装飾のために描かれたものでした。
王の胸像を手掛けたモンタニェスは、セビリアからマドリードに呼ばれ、この仕事に取り掛かりました。その作業中の彫刻家モンタニェスを、ベラスケスが描いた絵がこちら
手元にフェリペ4世らしき彫刻が描かれています。
明らかに大雑把に描かれた制作途中の王の胸像と、完璧な姿のモンタニェスの差が、この絵の主人公への敬意を表しています。
ガリレオ・ガリレイの協力
これらの絵と胸像をもとに、その当時まで技術的に不可能だった、2本の後脚だけで立つ勢いのある騎馬像の制作することになり、タッカは物理学者ガリレオ・ガリレイに重さの配分などの助言を得ました。
その結果、前方は空洞で、後方に重さを集中させて、およそ9トンの躍動感のある騎馬像を完成することに成功したのです。
この姿の騎馬像は、それまでに例がない世界ではじめての完成作品で、その後17世紀以降のヨーロッパの騎馬像の模範的作品となっていきました。
1635年から1640年にかけて制作され、完成後1642年マドリードで最初に設置されたのはかつてあったブエンレティーロ宮殿、その後数回設置場所は移転し、最終的に現在のオリエンテ広場に置かれたのは、1844年、王宮を背に、正面には王立劇場、またこの時から別の2人の彫刻家によって1843年に制作された、噴水に囲まれた台座の上に設置されています。
騎馬像正面には、台にの上に小さなプレートがあり、『ピエトロ・タッカによって ガリレオの助言を受けフィレンツで1640年に完成したフェリペ4世騎馬像、トスカーナ大公から贈られたもの、はじめはブエンレティーロ宮殿の庭に、その後1844年イサベル2世統治下オリエンテ広場に設置された』と記されています。
まとめ
その立ち姿だけではなく、近づいて馬を見ると、血管が浮き出たような腹部や、その表情、見開いた目、たてがみや、尻尾・・・と素晴らしく、また王の腰から流れるような布のひだや繊細なレースなど、とてもブロンズ像とは思えない作品です。
この騎馬像がいちばん綺麗に写真がとれるのは、この角度。
跳ね馬を冷静に乗りこなし手綱をもつフェリペ4世騎馬像、ルーベンス、ベラスケス、タッカ、ガリレオと当時の天才たちによる、マドリードでいちばんの秀作です。