世界史の中でも大偉業のひとつ、『ポルトガル人 マゼランの世界一周』ですが、実際に世界一周を果たしたのは、実はスペイン、バスク地方のエルカノという人です。あまり知られていないようですが、まぎれもない事実です。どうしてエルカノの名前は歴史の表舞台にでてこないのでしょう。
バスク海岸
スペインの北側にパイス・バスコ(バスク州)があります。バスク地方とは、スペインだけではなく、国境を越えてフランス側にも広がっている地方もあわせてバスク地方で、独自の言語を持ち、独特の文化や習慣、また最近は、美食文化の発信源的存在で、日本の方々にも人気の地方です。
バスク州があるスペインの北側は、大西洋カンタブリア海が広がっていて、フランス・バスクの、もともとは、ナポレオン3世の夏の保養地として有名なビアリッツの街から、1990年代の都市開発で大成功をおさめ、世界的に注目を集めるビルバオの街、この間に広がる北側の海岸線をバスク海岸とよんでいます。ビアリッツ、オンダリビア、サンセバスティアン、などの観光でも人気の街があるのがこの海岸沿いです。
ビアリッツは、ヨーロッパ サーフィンの発祥の地と言われる場所、またサンセバスティアンの街はスペイン王家の夏の避暑地として栄えた街、この街が王家の保養地になった理由の一つは、19世紀の女王イサベル2世が、気候だけではなく、この辺りの海水が皮膚病の治療に効果があると医者に勧められたのもきっかけでした。今でもこの辺りは、国際的なサーフィンの大会や、海洋治療(タラソテラピー)の施設などがあり、ヨーロッパのお金持ちたちが夏のバケーションに集まってくる優雅な雰囲気を少なからず残しているところです。
このサンセバスティアンから、車で30分ほどバスク海岸を西に行くと、ゲタリアという人口3,000人にも満たない小さな街があります。前述のビアリッツ、サンセバスティアンの華やかな雰囲気はない、小さな漁村で、丘の上にはブドウ畑が広がっていて、バスク地方で有名なワイン ”チャコリ ”の産地、また世界的に有名なデザイナーバレンシアガの故郷でもあります。このゲタリアで生まれたのが、世界で初めて世界一周を成し遂げた、エルカノです。
ゲタリアも含めたバスク海岸沿い、もっと大きく見るとビスケー湾沿いのほとんどの街はかつては漁港で、特に捕鯨で生計を立てていた街がたくさんありました。この地方の街の紋章に、クジラのがデザインがされているところが多いのは、そのせいです。
ホアン・セバスティアン・エルカノ
1476年、このゲタリアでホアン・セバスティアン・エルカノは生まれました。彼が生まれたこの時代、ちょうど大航海時代の幕開けのちょっと前の頃、まさにスペインとポルトガルが競い合って海へと出ていこうとしていた時代でした。
エルカノは、はじめゲタリアの漁師として船に乗りました。その後、船乗りとしての知識を認められ、志願兵として北アフリカやイタリアなどの戦争でたたかい、1519年スペインのセビリアの街でマゼランの計画を耳にします。
マゼランは、1480年ポルトガルのポルトの近郊で、下級貴族の息子として生まれました。コロンブスの新大陸到達や、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓など、両国の関心が海へと大きく向けられていく時代でした。
(余談ですが、このマゼランという呼び名は、彼の名前の英語読み、ポルトガル人である彼の名前は本当は、フェルナン・デ・マガリャンイス。スペインでは、マガジャネス・・・いったいどなた様?ですね。)
さて、この時代スペイン、ポルトガルは、新しい領土開拓の目的とともに、香辛料を求めてモルッカ諸島をめざしていました。クローブ、ナツメグといったヨーロッパにはない香辛料は貴重なもので、かなり高値に売買されていました。
13世紀から15世紀の間は、ベネチア共和国が地中海貿易の支配権を握っていて、イスラム商人との関係もあり、ヨーロッパでの香辛料取引を独占していましたが、大航海時代の幕開け後、ベネチア共和国は衰退の一途をたどり、スペイン、ポルトガルの時代がやってきます。
トルデシージャス条約
新しい土地を求めて、海に出ていったスペインとポルトガルのライバル意識は、どんどん高まり、お互いの権利の主張で戦争にもなりかねない状態でした。
そこで両国間で話し合いがおこなわれ、当時のローマ法王の承認のもと、(ヨーロッパ以外の)ここから西方面はスペイン、東方面はポルトガルと地球に線をひいて、それぞれの領土をはっきり決める条約を結びました。1494年 トルデシージャス条約です。
(緑の線は、サラゴサ条約と言って、地球に縦に一本線を引いても、どこから~どこまで の”どこまで” がわからないということで1529年にもう一本線引きをしました。(トルデシージャス条約の線のちょうど反対側に線を引いたのです。)
マゼランの計画
ポルトガルは、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見後、インド洋の支配権確立のためどんどん艦隊を送り出して行きました。1505年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いる20艘の艦隊が出航し、そのなかに、当時25歳だったマゼランは志願して参加、これがマゼランの初めての航海でした。
その後ポルトガル東周りルートの基盤固め、香辛料の貿易などいろんなできごとで、マゼランも手柄を立てたり、ケガをしたり、ポルトガルでのそれなりの居場所を築いて、自分もなにか大役を果たしたいとがんばるのですが、もともと出身が下級貴族の息子ということもあり、また、汚職疑惑をかけられたりと、ポルトガルの王家での出世は望めない状態でした。
ここで、マゼランはポルトガルに見切りをつけ、スペイン国王カルロス一世のもとへと鞍替えします。スペインでは、西回り航路による、アジアへの道の確立に力をいれていて、ポルトガルが東回り航路でかなり功績をあげる中、スペイン西回り航路の確立はかなり期待された、国をあげての関心事でした。
トルデシージャス条約で引かれた線のちょうど反対側、アジアでの線引きはまだされておらず、香辛料のモルッカ諸島が、どちらの領土なのかはっきりしない頃でした。
マゼランは、色んな人達の情報を得て、東回りよりも、西回りの方がアジアまでの距離は近いとなぜか判断します。これは、コロンブス以前から言われていたことでもあり、外国人であるコロンブスにスペイン王家が資金調達をして旅をさせたのは、アジアへの道を西回りで探していたからでもあるのです。
とにかく、ここでスペイン王家の承諾を得ることができたマゼラン、西へと向かって旅立つことになりました。
1519年8月セビリアの街で、マゼランがスペイン王家の庇護のもと、西回り航路開拓の艦隊を準備中と知って、志願して旅に参加することになったのが、エルカノでした。
3年におよんだ悪夢の航海
1519年8月10日 準備をしていたセビリアを出発。
1519年9月20日 サンルーカル・デ・バラメダの港から、239人の乗組員が5艘の船で、大西洋に出航。カナリア諸島、リオデジャネイロ、パタゴニアと進み、このパタゴニアで越冬(1520年2月~8月ごろ)、寒さの中、甲板で過ごす船員たち、空腹、病気の不満もつのり暴動がおきます。その後8月に航海を再開しますが、この頃5艘のうち1艘遭難。
1520年10月、のちにマゼラン海峡と呼ばれる、西の海へ出る海峡を発見、海峡を抜けた先が ” 太平洋 ”です。大西洋とくらべて、波も穏やかで嵐もなく、マゼランはこの海を MAR PACIFICO=穏やかな海とよんだそうです。太平洋を初めて渡ったヨーロッパ人で、その名付け親であったのも、実はマゼランでした。ただ、マゼラン海峡を抜けて太平洋に向かう途中、5艘の中でいちばん大きな船でいちばん多く食料を積み込んでいたサン・アントニオ号が、船員たちの仲間割れなどもあり、スペインに帰ってしまいます。サン・アントニオ号が裏切ってスペインに帰ったのか、遭難したのか調査をし、待っていた期間もあり、海峡を抜けるのに 1ヶ月もかかりました。
1520年11月28日 太平洋到着 そこから穏やかな海を進みます。マゼランは大西洋さえ抜けてしまえば、あとは問題ないだろうと予想していました。彼が旅の構想を練った時に使った地図や地球儀は、まだ情報のほとんどない時代のもので、太平洋の大きさを十分に把握できていませんでした。そして、目的地であった香辛料のモルッカ諸島が、トルデシージャス条約で決められたスペインの領土には入っていないことも確信しました。
1521年3月6日 約100日ぶりに食料をもとめて上陸したところは、現在のフィリピンでした。この頃はもう食料も底をつき、船に貼ってあった牛の皮や、木材まで食べるありさま、船員たちも栄養失調や病気で命をおとしていました。フィリピンでは、はじめは住民たちとも親交を持ち、布教活動をするほどだった関係も、その後マゼランの強制的な改宗要求に地元住人たちは反発し、戦争になり、ここでマゼランは命を落としてしまいました。
歴史の中で語られない事実
マゼランが戦死した後、はじめ5艘だった船は、この時点で3艘、ただフィリピンを出るころには船員たちもかなり人数が減っていて、3艘のうち、1艘はここで破棄、トリニダー号とビクトリア号がなんとか目的地であった、モルッカ諸島に到着。香辛料をつめるだけ積み込んで、帰路につくことになります。この時マゼランに代わって乗組員たちのリーダーとしてビクトリア号の指揮をとることになったのが、そうです、エルカノでした。
そのころには、この先にも未知ながらも島や陸があるという情報を得ていた生き残っと船員たちでしたが、トリニダー号は、もう一度太平洋経由で、来た道を戻るルートをとり、途中ポルトガル軍に取り押さえられてしまいました。
エルカノの乗ったビクトリア号は、そのままインド洋をすすみ、喜望峰を回ってスペインへ帰ることになりました。
最後に食料を積み込んだティモール島から喜望峰まで上陸することもなく、喜望峰では仕方なく上陸して何とか食料の調達をはかりました。喜望峰はポルトガル領、この際、香辛料を運んでモルッカ諸島からということはふせて、アメリカからの船で迷ってしまったということにしたそうです。
そしてなんとかボロボロのビクトリア号でスペインのサンルーカル・デ・バラメダの港に帰りついたのが、出発から約3年後の1522年9月6日、はじめ238人いた船員たちはのうち、無事生還できたのは、たった18人でした。
スペイン王カルロス一世は、18人のうち何人かを招待し、世界初の世界一周の偉業を讃え、報奨金と、名誉の紋章をエルカノに与えました。
その後エルカノは、1526年、2度目の太平洋航海中、病に倒れ亡くなってしまいました。
マゼランの大偉業と18人の存在
マゼランはもともと世界一周をするために航海を始めたわけではなく、いかに香辛料を運ぶ道を手に入れるか、それが目的でした。世界一周は偶然の副産物。とはいえ、マゼランのおかげでなしえた大偉業です。歴史のなかで語り継がれていくのは当然のことでしょう。
ただ、よくよく考えると、マゼランの航海に資金を調達したのは、スペイン、そして、最終的に世界一周したのは、スペイン人のエルカノです。志半ばで亡くなったマゼランだけが、歴史の中で讃えられるのに、ちょっと違和感を持つ、というか、どうしてスペインはエルカノのことをもっと主張しないのだろうか?と。そう思って、この記事を書き始めたのですが、
ここまで読んでいただいてお気づきのとおり、これはやっぱりマゼランの記録なのです。エルカノを中心に話を進めようと思っても、やっぱりマゼランの大偉業ですとしか、まとめようがありません。それが真実で、それでいいと思います。
ゲタリアの街には、世界初の世界一周を成し遂げたエルカノと船員17名の名が刻まれたモニュメントがあります。
エルカノと他の17名が世界を一周回ってスペインにたどり着いたのは、1522年9月6日でした。彼らの記録が世界史の中で、大きく語られることはないのかもしれませんが、もし、脚光を集める日があるとしたら、それは、9月6日、無事生還したその日、2022年9月6日は、世界一周からちょうど500周年の記念の年、せめてその年のその日だけは、エルカノに花を持たせて、世界中の人にエルカノっていうスペイン人がいたことを知っていただけたらいいなと思います。
ゲタリア、レストランの外で、炭火でお魚焼いてるところがたくさんあります。チャコリも本場、おいしいですよ!