聖衣剥奪(El Expolio)は、1577年、グレコがスペイン(トレド)に来たその年に、トレドの大聖堂から依頼を受けて描いた作品です。
1枚の宗教画にも、作品の内容とは別のいろんな面白い裏話が隠れていて、そういうのを探してまた絵画鑑賞をすると、違った楽しみ方ができるので、今回はグレコの有名な作品の裏話を紹介します。
エル・グレコ
エル・グレコは、ギリシャに生まれ、イコン画を描き、その後イタリアに渡りベネチアやローマで絵のテクニックや、そしてその後の彼のキャリアに影響を及ぼす人脈を作り、イタリアに10年ほど滞在した後、1577年にスペインに来て1614年に没するまで、トレドで生涯を過ごしました。
グレコに関しての詳細は↓↓↓
聖衣剥奪(El Expolio)って、どんなシーン?
聖衣剥奪とは、イエスが十字架で磔の刑を受ける前に、イエスが来ていた服(聖なる服)を脱がせて、裸にするシーンです。
グレコがこの絵を描いた時代、このシーンがテーマになった絵はあまり一般的ではなかったようで、グレコは絵を描くにあたって、先輩画家たちの絵の部分的には参考にしながらも、全体像は独自の創造性でこのシーンを描き上げました。
この絵が注文された理由は?
この作品は、トレドの大聖堂の聖具室(Sacristía)のために依頼された絵です。
聖具室(Sacristía)とは、 教会内の部屋の1つで、祭典の準備をしたり、祭服に着替えたり、またそれらに使用する道具が納められている準備室のことです。
トレドの大聖堂には13世紀、フランス国王ルイ9世(スペインの当時のカスティージャ王国の王フェルナンド3世は ルイ9世の従兄 )から聖遺物が数多く贈られました。
聖遺物とは、イエスや聖母マリア、聖人に関係のある遺品です。
聖遺物に関しては↓↓↓
その贈られた聖遺物の中に、イエスが磔になる前に着ていたチュニック(ワンピースみたいな服)の一部というのがあったらしく、着替えをする聖具室+イエスの服の一部(聖衣)がある・・・という事で、聖衣剥奪がテーマに選ばれたようです。
ちなみにトレドの大聖堂に贈られたイエスのチュニックは、その後紛失してしまい、現在はありません。
代金をめぐって裁判沙汰になった絵
さて、『聖衣剥奪』というこの絵ですが、絵の代金をめぐってかなり揉めたようです。
当時の画家は、絵を描き始める前に、準備費のような前払いのお金をもらい、その後は出来上がったあと、料金を交渉して代金をもらうという形式でした。
グレコは準備金として150ドゥカードを先に受け取り、1577年から仕事をはじめ、1579年に完成させました。
出来上がった時、大聖堂側の代金交渉人が提示した金額は227ドゥカード、グレコが要求した金額は900ドゥカード、なんと約3倍も高い金額を提示したのです。
グレコは外国人でトレドにも住み始めたばかりで、また性格も個性的過ぎたのか、なかなか彼の理解者は現れず、頼りにできる後見人もほとんどいない状態でした。
それでも素晴らしい芸術家であることは否定できず、そうすると、もとからトレドで仕事をしていた他の画家たちの仕事を奪いかねない存在でした。(実力は認めるけれど、言いなりにもなれないという状況だった)
900ドゥカードは、当時の絵の代金の常識をはるかに上回るもだったので、トレドの大聖堂側では、初めに提示した227ドゥカードより少し多い317ドゥカードという金額を提示します。
そして、絵の中に何点か大聖堂側で納得できない表現があるので、それも修正することを要求しました。
【修正を要求された点】
●絵の中で鎧兜が描かれていますが、それは時代がもっと新しい時代の物なので修正
●真ん中の赤い服のイエスの後方上部にかけて、人がたくさん描かれているが、イエス様の上に人がいてはいけないので修正
●向かって左下の方に3人のマリア(聖母マリア、マグダラのマリア、クロパのマリア)が描かれているが、聖書にはこの3人がここにいたとは明言していないので修正
余談ですが、右下の黄色の服の男、板にくぎを打ち付けるこの動作は、おそらくラファエルがタペストリーの下絵のために描いた『奇跡の漁』の中の一部を参考にしたと思われます。
また、イエスを取り囲むように描かれた大勢の人達は、グレコは『ユダの接吻』のイメージから創作したのではないかと思われます。
揉めた結果は?
話し合いの結果、結局双方の折り合いがつかず、大聖堂側がグレコを訴えました。
その理由は、準備金を先に受け取っておきながら、作品を希望通りに描かないだけでなく、法外な料金を請求して、このまま話し合いがつかなければ、絵を持ってスペインを去ってしまうかもしれないという事でした。
グレコに与えられた選択肢は、
●350ドゥカード支払うので、絵を希望通りに修正し納品する
●絵を納品しないのなら、準備金を返す
●どちらも無理なら投獄
そして最終的に、初めに大聖堂側が提示した金額より高い350ドゥカードで、指摘された箇所の修正はしないまま絵は納品という事で、落ち着きました。
頑固で譲らないグレコの一面を垣間見るような出来事でしたが、料金の支払いが行われたのは、納品後約2年後(1581年)という事で、大聖堂側もなかなか一筋縄ではいかなかったようです。
この絵に使われた布は?
この絵のサイズは、縦285㎝ x 横173㎝
リネンのキャンバスに描かれていて、板に釘で打ち付けてありました。
グレコの時代、このサイズの布自体珍しく、この手の布で一番大きく品質が良かったのがいわゆるテーブルクロスでした。
という事で、グレコはテーブルクロス用の布に絵を描いています。
絵を板に固定するのに使った釘が錆びたため、その部分が痛んでいたので、現在は錆びないホッチキスの針で固定されています。
背後の板が絵の保存と街の気象環境に適していたようで、描かれてから400年以上経ちますが、かなり良い状態が保たれています。
エル・グレコのサイン
エル・グレコはギリシャ人で、本名は、ドメニコ・テオトコプーロスと言います。
グレコの作品には、絵の隅の方に白い布や紙のようなものが、なんとなく描かれていることがあり、そこに本名でサインが残っています。
『聖衣剥奪』では、右下の釘を打ち付けている板の前の石に、そのサインが残っています。
レプリカ、コピー
エル・グレコの作品は、『聖衣剥奪』や他の作品も、同じ(ような)絵が何枚もあります。
1枚オリジナルを描いたら、それを見てもらって、気に入ってもらえた作品を何枚も描いて大量生産(?)していました。
当時の画家たちは多くの弟子を抱え、作品の大部分はその弟子たちが仕上げたり、もしくは全て弟子たちの手によって完成されたものもあります。
グレコは、全く関わらず弟子が仕上げた絵に本人のサインをすることもあったようです。
絵のテクニックではなく、絵をどういうアイデアで表現したものかというのが大事だったようで、そのデザインの創造性(?)に対してのサインだったようで、グレコの監督の元、グレコの創作物を完成してくれるのが弟子だったのです。
『聖衣剥奪』も10枚以上のレプリカ、コピーがあり、その中でエル・グレコがてを実際に手を加えたのは数枚だけなのだそうです。
下の絵はプラド美術館所有の『聖衣剥奪』、この作品は、エル・グレコの息子、ホルヘ・マヌエル・テオトコプーロスによるコピーで、右下のサインは息子の名前になっています
まとめ
絵から受ける印象とは違う画家の性格や、当時の環境なども少し知ると、また違った見方もできて、宗教画が多い中世の絵画鑑賞が苦手という方にも楽しんでもらえるかもしれないと思って、ちょっとだけ紹介してみました。
おまけ
この絵の上部、青空と槍が描かれています。
下の絵は、17世紀のスペイン王家の宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの有名な作品の1枚で、プラド美術館でも人気の『ブレダの開城』です。
エル・グレコが描いた青空と槍が、こうして後世の画家たちのインスピレーショになったのかも知れませんね。