絵画の歴史の中でも特に大事な作品と言われる【ラス・メニーナス】
作品の登場人物の1人が、王女マルガリータ。
プラド美術館の看板娘です。
このかわいらしい女の子の生涯と家族関係、また彼女にまつわる有名な絵画を何枚かまとめてみました。
真ん中の金髪の女の子がマルガリータちゃんです。
マルガリータのお父さん
マルガリータのお父さんは、17世紀のスペイン国王フェリペ4世です。
フェリペ4世の時代に宮廷画家として活躍したのが、あの有名なディエゴ・ベラスケスです。
フェリペ4世は、1615年フランスの王女イザベル・デ・ボルボンと結婚し、7人子供を儲け、そのうち2人が成長しました。
1人はバルタサール・カルロス王子で、王位継承者でしたが、16歳で亡くなります。
もう1人は、マリア・テレサ王女で、彼女はフランスのルイ14世に嫁ぎ、フランス王妃となりました。
このマリア・テレサとルイ14世の結婚式の会場手配、装飾などをやったのがベラスケス。
この結婚式で全力を出し切ったのか(?)ベラスケスはこの後すぐに亡くなってしまいました。
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後継者バルタサール・カルロスは1646年急逝し、フェリペ4世は1649年に再婚することに。
再婚相手はマリアナ・デ・アウストリア。
彼女は、ハプスブルグ家のフェルナンド3世に嫁いだフェリペ4世の妹マリア・アンナの娘。
もともとは、バルタサール・カルロスの婚約者でしたが、王子が急逝したためフェリペ4世はこのマリアナ・デ・アウストリアと再婚したのです。(つまり、叔父と姪の結婚です)
この2人の間にマルガリータは誕生しました。
マルガリータが10歳の頃、弟 カルロス2世が誕生しますが、彼は虚弱で、結婚も2回しますが跡継ぎを残すことなく亡くなりました。
ハプスブルグ家では近親結婚の率が高く、特にカルロス2世はその影響が顕著にあらわれ、様々な問題を抱えて生まれてきました。
余談ですが、
フェリペ4世は、この2人のお妃さま以外にも、多くの女性たちとの間に子供を残したと言われています。15歳で王位を継承したフェリペ4世は国政にはあまり興味がなく、夜な夜な遊び歩いていたらしく、はっきりとした数はわかりませんが、王妃以外との関係で少なくとも30人ほどの子供が生まれたそうです。
けれども、正当な王位継承権を持った子供は4人だけしか育たず、そのうちの2人の男子は亡くなり、その結果スペイン・ハプスブルグ王朝は途絶えてしまうという、皮肉な結末を迎えます。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ
マルガリータがスペイン国王フェリペ4世とその2番目の妃マリアナとの間に生まれたのは、1651年。
当時ヨーロッパの王家に生まれたお姫様たちは、国同士の手を結ぶ手段としての政略結婚で、生まれた時から嫁ぎ先が決まっていることもありました。
マルガリータの場合は、その相手は、ハプスブルグ家のレオポルド1世でした。
レオポルド1世は、マルガリータの母マリアナの実の弟。(ここでも叔父と姪の関係)
マルガリータが幼いころからこの縁談は準備されていて、弟カルロスの誕生の2年後から婚約の契約の話が本格化します。
その後1665年10月に結婚の予定でしたが、同年9月17日にフェリペ4世が亡くなり、結婚はしばらく延期されました。
この絵は、ベラスケスの弟子で娘婿でもあるフアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソの作品です。ベラスケスのもとで長く弟子として勉強したマーソの晩年の作品。
フェリペ4世が亡くなったのが1665年9月、レオポルド1世との代理結婚が行われ、マルガリータがマドリードを後にしたのが1666年4月、また絵の中、奥の部屋にまだ幼い弟カルロス2世の姿があり、首にToisón de Oro という王家の跡取りが受け継いでいくネックレスが描かれています。この授与式が行われたのが1665年11月だったので、1665年11月から1666年4月に間に描かれた作品です。
翌年、まだ父王の喪中でしたが4月にマドリードを出発、予定の倍の8か月の旅の末、ウィーンで結婚のお祝いが華やかに行われました。(マルガリータが15歳の時)
マルガリータは生涯6人の子供を授かりましたが、無事に成人に達したのは1人のみ(マリア・アントニア)
マルガリータは6人目の子供を出産した後、間もなく亡くなってしまいました。(21歳)
度重なる妊娠で心身ともに疲れ切っていたことが想像されます。
生まれ育った環境が【スペイン王家】、全てが本人の意志とは関係なく決められてしまうのが、当時の王家での普通だったので、その事に矛盾を感じることもなかったのかもしれませんが、彼女の人生は、外から想像する王家のお姫様の贅沢な華やかな生活ばかりではなかったようです。
結婚の背景
当時のスペインは、跡継ぎが大きな問題になっていました。
フェリペ4世の後継者の予定であったバルタサール・カルロスは1646年になくなり、その妹マリア・テレサは1660年にフランス王妃となり、スペインの正式な後継者はマルガリータのみ、マルガリータが生まれた頃からこの縁談はありましたが、スペイン王家としては、はっきりと返事をできない状態でした。
1661年にカルロス2世が生まれましたが、成人できるかどうかという虚弱な子供だったので、やはり、スペインの跡継ぎ問題が解決できないまま。
お見合い相手のレオポルド1世側は、フランスのルイ14世がスペインのマリア・テレサと結婚したため、スペインの後継者の地位をはっきりと狙ってることは周知の事実、早くマルガリータとの婚姻を成立させて自分もその権利を手にしたいと思っていました。
ルイ14世とレオポルド1世の間では、すでにスペインの領土分配をどのようにするか水面下で話をしているとの情報もあり、フェリペ4世は窮地にたっていました。
マルガリータの結婚について、フェリペ4世は遺言書にははっきりとしたことを残さなかったことから、 国王が亡くなった後延期され、レオポルド1世は実の姉であるマルガリータの母マリアナに期待しますが、彼女も思うようには動いてくれません。
スペインの将来がかかった大事な大事な婚姻、それがあのかわいらしいマルガリータの肩にのしかかっていたのです。
結婚生活
結婚相手のレオポルド1世の事は、『おじさま』と呼んでいたとか。希望通りではなかったかもしれませんが、音楽やオペラが好きだったというレオポルド1世、結婚式のお祝いにオペラを準備し、祝宴は、春まで続いたと言われ、大事に迎え入れられた様子が伝わります。
上の絵は、劇場用の仮装の衣装。
夫婦でこんな格好で仲良く楽しんでいたのかも。
ただ、マルガリータの側近としてスペインから送られていた官僚とレオポルド1世側とでは、なにかと対立があったようで、そのしわ寄せは若いマルガリータに向けられることもありました。
マルガリータの成長記録
マルガリータのお見合いは、彼女がまだ幼いころから準備は始められました。当時、写真さえもない時代、お見合い相手がどういう人か、またその人がどういう風に成長しているかを知らせる手段として、公式お見合い肖像画が何枚も描かれ送られました。
その絵の担当は、もちろん当時の宮廷画家ベラスケスです。
ベラスケスが描いた、マルガリータの成長記録とも云える3枚の肖像画です。
ラス・メニーナスが描かれたのと同じころ(5歳)のマルガリータちゃんで、ドレスは、ラス・メニーナスの物と全く同じもの。
すでにコルセットでかなり細く強調された腰と広がったドレスを着ているのがわかります。(内部にはクジラの骨が使用され、スカート部分を広げているとか)
5歳であっても王女としての厳格さを表現することが望まれるので、子供らしい表情ではなく、全く無表情のマルガリータが印象的です。
8歳ごろ。
フランス ルイ14世とマルガリータの姉マリア・テレサとの結婚が決まり、レオポルド1世からの婚姻契約の催促が増していった頃、ベラスケスの晩年の作品です。
その完成度の高さから、また作品が展示されている部屋がベラスケスの部屋なので、彼の作品と思われがちですが、実際はマーソの作品です。
かつてはベラスケスがドレスを仕上げ、顔や背景のカーテンはマーソが仕上げた物だろうと言われていましたが、今はベラスケスの関与は否定されています。
その根拠として挙げられるのは、このマルガリータの表情と体形から9歳以上の子供だろうと推定され、そうするとベラスケスが亡くなったのがマルガリータが9歳になったばかりの頃なので、ベラスケスはこの絵を描いていないという事と、ベラスケスならこのドレスの仕上げるのに、こんなにたくさん塗り重ねることなく完結していたはずだという事などです。
ベラスケスが亡くなった後、1661年からマーソが宮廷画家の仕事を継いだ経緯も在り、王女の肖像画もてがけたようです。
プラド美術館の解説によると、この作品は1665年頃描かれた作品となっていますが、もうちょっと若い頃ではないかという説もあります。
まとめ
この絵が描かれたのが1670年頃、唯一成人した娘マリア・アントニアが1歳の頃、マルガリータはまだ20歳にもなっていなかった頃です。
この頃がもしかしたら彼女の生涯で一番幸せな時期だったのかもしれません。
娘マリア・アントニアも母と同じく若くして結婚、長男次男の死後、三男が生まれるとすぐ23歳で亡くなってしまい、三男ヨーゼフ・フェルディナントも6歳で急逝。もうマルガリータはこの世にはいませんでしたが、娘も孫も悲しい運命にみまわれました。
ベラスケスが【ラスメニーナス】でマルガリータを描いたのが彼女が5歳の頃。
あの愛くるしい女の子の事は、巨匠ベラスケスの絵によって後世に語り継がれることになりますが、本当の彼女の姿は、絵画だけでは伝わらない、複雑な人生でした。