ルーベンス 『三美神』 プラド美術館

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ルーベンス

ルーベンス自画像

ピーテル・パウル・ルーベンスは、1577年ドイツのシーゲンで生まれました。ルーベンスの両親は当時フランドルと呼ばれた現在のベルギーのアントワープに住んでいましたが、宗教的な問題で故郷を離れドイツに移り住み、そこでルーベンスは生まれています。(父親は法律家でした)

ルーベンスの父親の死後(1587年)、母親とともにアントワープに戻りましたが、母親だけでは経済的に困窮してしまい、13歳の頃貴族の館へ奉公に出て、そこで美術の才能を見出され、地元の画家たちについて絵の勉強をし、21歳の頃には芸術家の同業者組合の試験にも合格し、その一員として頭角をあらわします。

イタリアへ 

1600年、さらに絵の勉強のために、とくにルネサンス美術を学びにイタリアに行ったルーベンス、ベネチアで、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットの作品に魅せられ、これらベネチア派の画家に大きな影響をうけました。

イタリアでは、マントヴァ公爵ヴィチェンツォ1世(マントヴァは、かつてイタリアに存在した国、そこを支配していたのがマントヴァ公爵)の目に留まり、宮廷画家として働きはじめました。

1603年、マントヴァ公爵の依頼で、当時の国王フェリペ3世に贈り物を届けにスペインに送られました。(この頃から外交大使としての仕事もこなします)この時、スペインではフェリペ2世の時代に収集した、ティツィアーノやラファエロの作品を目にする機会があったようです。

「レルマ侯爵」ルーベンス プラド美術館

この絵は、フェリペ3世のお気に入り(影の権力者でもあった)「レルマ侯爵」。ティツィアーノが描いた「カルロス1世の騎馬像」から影響をうけた作品といわれています。ルーベンスは、1回目のスペイン訪問中にこの絵を描きました。

「カルロス1世の騎馬像」ティツィアーノ プラド美術館

1604年またベネチアに戻り、その後マントヴァからフィレンツェ、ローマへ、ダビンチや、ミケランジェロ、ラファエロといった巨匠の作品に影響を受け、先人たちの模写をしながら、多くを学びました。

画家、外交官として忙しく、作品は弟子が仕上げていた物も多い

1608年、母親の急病でアントワープにもどり、母親が亡くなった後、1609年、街の有力者の娘、イサベラ・ブラントと結婚、もうこの頃はフランドルで一番人気と実力のある画家でした。

ルーベンスがイタリアからアントワープに戻ったころ、スペイン領ネーデルランドは、アルブレヒト7世と、そのお妃でスペインの王女でもあったイサベル・クララ・エウヘニアの2人によって納められていて、それまで続いていた80年戦争(スペインカトリック軍VSネーデルランドプロテスタント軍の戦争1568年-1648 1609-1621停戦)停戦中で、国が安定して、経済的にも復興していった時代でした。

ルーベンスは、宮廷画家としての地位を得てこの2人に仕え、この頃から停戦が終わる1621年頃までが、画家の生涯でも一番多くの作品を残しました。

ネーデルランドだけではなく、ヨーロッパ中から仕事の依頼があり、忙しかったルーベンスは、工房に弟子をたくさんかかえ、画家本人が描くのは下絵と最終の仕上げの部分、あとは弟子が描きあげるという、作品の大量生産のためのシステム(?)をつくりあげました。

作品によっては、サインだけが本物というのもあるそうです。

そのことは周知の事実で、この部分は弟子が、この部分は自分(本人)が描いたというようなコメントもきちんと残し、本人が描いた部分が多い方が当然のことながら高く売買されました。

Peter Paul Rubens, Public domain, via Wikimedia Commons
ルーベンスによる下書き
Cornelis de Vos, Public domain, via Wikimedia Commons
コルネリス ・デ ・ボスによる完成作品

ヨーロッパの 色んな王家のお気に入りの画家だった ルーベンス

フランス国王アンリ4世の王妃ために描かれた24枚のシリーズ、「マリー・ド・メディチの生涯」は、この時代に描かれたルーベンスの大作です。

またこの時期、ネーデルランド君主イサベル・クララ・エウヘニアの依頼で、マドリードのデスカルサス王立修道院のために、タペストリーの原画も何枚か描いています

その後製作されたタペストリーは今もマドリードのデスカルサス王立修道院に展示中。

「教会の勝利」ルーベンスによるタペストリーの原画 プラド美術館

(イサベル・クララ・エウヘニアは、スペイン国王フェリペ2世の娘で、デスカルサス修道院の創立者フアナ・デ・アウストリアは、フェリペ2世の妹で、イサベル・クララ・エウヘニアの叔母。また、アルブレヒト7世の母親は、フアナの姉マリアで、イサベル・クララ・エウヘニアの姑でもあり叔母でもある人、アルブレヒト7世は幼い時スペインに送られフェリペ2世のもとで育った経緯も在ります。この辺ちょっと複雑な血縁関係・・・)

スペインと関係

1626年、ルーベンスの奥さんイサベラが亡くなります。

1628年、スペイン領ネーデルランド君主のアルブレヒト7世より、スペインへ外交官として送られます。当時のスペイン国王フェリペ4世は、当時ヨーロッパで特に人気のあったルーベンスの作品の大ファンで、外交という名目のもとルーベンスをスペインに呼び出し、最終的には8ヵ月に及ぶ滞在となりました。また当時まだ30歳と若かったベラスケスの師として、ベラスケスに色んな助言をしました。

ルーベンス本人も、スペイン王家の絵画コレクションで、巨匠たちの作品から影響をうけ、模写も何枚も試みています。

「アダムとイブ」ティツィアーノ1550年プラド美術館
ティツィアーノのコピー1628年 ルーベンス プラド美術館

1621年に80年戦争の停戦協定が終わった後、スペイン領ネーデルランドの君主は、ルーベンスの外交官としての能力にも注目し、1629年にスペインからアントワープに戻ったあともすぐにイギリスのチャールズ1世のもとへとむかいます。

初めにイタリアに行った時から、マントヴァ公爵、スペイン領ネーデルランド君主、フランス王妃マリー・ド・メディア、スペイン国王フェリペ4世、イギリスチャールズ1世と、ヨーロッパの王族との関係も深く、どこの国でも単なる雇われ画家という扱いではなく、宮廷画家として大事にされ、また王家以外からの仕事も絶えることがありませんでした。

2度目の結婚と晩年

そんな中、ルーベンスは53歳の頃2度目の結婚をしました。お相手は、前妻イサベラの姪、エレーヌ・フールマン、当時16歳でした。

「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」ルーベンス1638年頃

この若く美しいエレーヌとの再婚で、それまでの外交の仕事からはいっさい離れ、晩年は、家族中心、エレーヌとの結婚生活約10年の間に5人の子供を儲けました。(それでも精力的に作品もてがけていました。)

三美神

三美神は、1635年頃描かれた作品です。

三美神はスペイン語では『Las Tres Gracias 』【ラス・トレス・グラシアス】

ルーベンスの作品の大半は、神話、宗教画、歴史画ですが、三美神は神話に登場する女神をテーマに描かれた作品です。

三美神は、ゼウスの娘たち三姉妹で、アグライア(輝き)、エウプロシュネ(喜び)、タレイア(花の盛り、豊かさ)の女神達、愛の女神アフロディーテの侍女たちです。

三人の頭上にあるバラとキューピッドがアフロディーテを象徴しています。(アフロディーテのアトリビュートのひとつはバラ、キューピッドはアフロディーテの息子)

向かって左手の金髪の女性のモデルになったのは、ルーベンスの2番目の奥さんエレーヌだそうで、そのヒントとして、後ろの木にかけられた服は、神話の時代のクラシックな物ではなく、17世紀のルーベンスが他の作品の中で描いたエレーヌが着ていたものが描かれています。

ルーベンスとエレーヌと息子
※エレーヌはだいたいこんな感じの黒い服を着ています

この作品の中で見られるほかのシンボルとしては、キューピッドが持っている噴水の形が角で、豊さをあらわします。奥の方に見える鹿と大地はフランドル地方の田園風景。

この作品は、誰かのために描いたものではなく、本人のために描いた作品だろうと言われて、画家が1640年62歳で亡くなるまでは、大切に保管していた作品です。

本人用だと言われる決め手になっているのが、ルーベンスは何枚も自分用の作品を描いていますが、その多くが、キャンバスではなく、板に描かれていることです。(キャンバスの方が持ちやすいので、手元を離れるとわかっている作品は、キャンバスに描かれています)

ルーベンスはこのテーマが好きで、少なくとも12回はこのテーマで絵を描いています。

好きなテーマで、大好きな奥さんの姿と愛にあふれた感情を、自分(本人)の楽しみのために描いたせいか、中でも完成度の高い仕上がりで、ルーベンスの代表作の1枚です。

ちなみに、三美神は、15世紀に発見されたヘレニズム時代(紀元前323年-紀元30年の約300年)の古代彫刻がきっかけとなり、その後テーマとして扱われるようになりました。

15世紀に発見された古代彫刻
シエナ大聖堂

古代彫刻の三美神は、視線が外向きなのに対して、ルーベンスのものは、3人の視線がそれぞれ見つめあっています。
また、3人が腕を掴みあって輪を作っていて、これが終わりのない物(無限)、終わりのない愛と豊かさを、肉付きのよいふくよかな体が、あふれるばかりの喜びと、豊かさと愛です。

この作品は、画家が亡くなった後、スペイン国王フェリペ4世が購入、当時としてはあまりにも官能的な裸の作品が女王様の目に留まらないように、布がかけてあったり、18世紀のカルロス3世に至っては、この絵を処分してしまおうという意向もあったようですが、プラド美術館がオープンした後は特別に入場を許された人だけが鑑賞できる特別室にしばらく展示され、1839年以降一般に公開されています。

まとめ

ルーベンスは、約3000(本人と、弟子と共同で)の作品を手掛け、そのうち約1400作品が本人の物と確認されているようです。

大量生産で、弟子の手も借りましたが、本人もすごく仕事が早かったようです。

外交官として活躍し、宮廷で優雅な立ち居振る舞いを身に付け、教養もあり、仕事も早く、なおかつ奥さん思いで、晩年は潔く外交の仕事から身を引き、家族に囲まれて好きな絵に没頭して・・・、きっと、人間として魅力的な人だったんでしょうね。ちょっと会ってみたいような・・・。

プラド美術館は、ルーベンスの作品を123作品所有しています。
「三美神」は、なかでも特に大事にされている人気の作品です。(展示室029)