コルドバのメスキータ 大聖堂 世界で唯一の面白い建物です!

イスラム教のお祈りの場所モスク、スペイン語ではメスキータといいます。

メスキータとは、アラブの言葉で「ひざまずく場所」。

スペイン イスラム建築の中でも圧倒的な存在感で、異彩を放つコルドバのメスキータ。

この街でしか見る事が出来ない、世界でひとつだけの建造物です。

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『コルドバ』という街

コルドバは南スペイン、アンダルシア州にあるコルドバ県の県都。

街の歴史は古く、紀元前2世紀ごろまでさかのぼり、古代ローマ時代にはローマ帝国の属州ヒスパニア・ベティカの州都でした。

ローマ帝国が衰退した後は、西ゴート王国時代、そしてイスラム支配下へと、グアダルキビル川(アラブの言葉で”大きな川”と言う意味 イベリア半島で5番目に長い川)のほとりのこの場所は、いろんな民族の支配下におかれ栄えた街でした。

コルドバ ローマ橋とグアダルキビル川

≪当時のイベリア半島のミニ歴史≫

イベリア半島には711年からイスラム勢力が侵入し領土拡大を進めていて、それまで(イスラムが入ってくるまで)スペインの(当時は西ゴート王国時代)の首都はトレドでしたが、トレドも攻略され、西ゴートの指導者たちは、北スペインのアストゥリアス地方まで逃げ落ち、そこでアストゥリアス王国を立ち上げます。

勢いづくイスラム勢力はスペインの北の方まで一気に攻めていくのですが、722年アストゥリアスのコバドンガの戦いで、ついにスペイン軍はイスラム軍から一勝をあげ、今度は征服された土地をスペイン軍が奪回する戦争を続けていきます。

ここから始まるスペイン軍の国土再征服の戦争をレコンキスタと呼びます。

最後のイスラムの居城であった有名なアルハンブラ宮殿をおとしたのが1492年、レコンキスタが終わるまでには700年以上の歳月が流れました。

レコンキスタの歴史は、スペイン観光、特にアンダルシア地方では必ず出てくる大事なポイントなので、大雑把にでもこの辺りの流れを理解しておくといいですね。

≪イスラム教≫はメッカでムハンマドが預言者として唯一神アラーの教えを説き始め、本格的に活動が始まるのは622年、その後は後継者たちが後を継いでいくのですが、750年頃、後継者問題で、当時の後継者であったウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされ、ウマイヤ朝の生き残りアブド・アッラフマーンが、シリアからイベリア半島に旧臣たちと共に逃げ渡ります。

アブド・アッラフマーンは、後ウマイヤ朝を立ち上げ支配者として君臨し、その時本拠地を置いたのがコルドバの街です。

コルドバはアンダルシアに誕生した、最初のイスラム王国の首都として徐々に人口も増え、文化・芸術・哲学・天文学・医学などあらゆる分野の融合地点として大きく栄えていきました。

コルドバが特に繁栄を極めたのは10世紀、学者たちが集まり、ヨーロッパにはまだ大学というものがなかった時代に、50万冊を超える蔵書を誇る学問所があり、最先端の情報の発信源だったのがコルドバで、当時世界で一番人口が多い街でした。現在コルドバの人口は約32万人ですが、10世のこの街には100万の人が住んでいたと言われます。

その後、レコンキスタでスペイン軍がコルドバを奪回したのは1236年フェルナンド3世の時代、またその後15世紀になるとレコンキスタも完了し、スペインにいたイスラム教徒やユダヤ人は迫害をうけ改宗もしくは国外追放となり、コルドバも時代とともに徐々にかつての勢いを失くし衰退してしまうのでした。

メスキータの建設

話を8世紀のコルドバにイスラム王国の首都を置いたアブド・アッラフマーンの時代に戻しましょう。

イスラム社会からも、東のメッカ、西のコルドバと言われるほどの力を持つ街となり、祈りの場所であるメスキータも街の規模に見合う物が当然必要になりました。

そこでかつての西ゴート王国時代のカトリックの教会(サン・ビセンテ教会)があった場所で、それ以前のこの街の支配者たちもそれぞれの神を祀っていた場所に、イスラム教徒たちが祈りを捧げる場所モスク=メスキータの建設が始まったのが785年。

その後も街の繁栄と共に3回にわたって拡張工事が行われ、メッカについで2番目に大きなメスキータとなったのがコルドバのメスキータ。

下の図のように

①黄色の部分 初めに造った部分(785~ )

②緑の部分 1回目の拡張工事部分(833~848)

③水色の部分 2回目の拡張工事(961~ )

④ピンクの部分 3回目の拡張工事部分(987~988)

白い部分は中庭。庭も初めは黄色の部分とほぼ同じ広さの庭が建物の北側にありましたが、その後少しずつ拡張されていきました。

拡張工事は1回目、2回目と南側に向かって行なわれましたが、この先南にはグアダルキビル川があるため、3回目は建物を東側へと拡張して現在の大きさになりました。

最終的には、2万5000人の信者が集まることが出来る、巨大なメスキータになっていきました。

Ronny Siegel, CC BY 4.0 Wikimedia Commons

コルドバのメスキータが特別なのは

イスラム教徒によって繁栄を極めたコルドバの街でしたが、レコンキスタでこの街をスペイン軍が奪回したのは1236年。

この頃、街の支配権は変わりましたが、イスラム教徒が急にこの街を追われるようなことはなく、またイスラム支配下にあった頃は街のユダヤ人たちは、街の壁の外へと住む場所を追われましたが、レコンキスタで街がスペイン軍の手に戻ると、迫害されていたユダヤ人たちも街の中に戻ることを許可され、コルドバの街は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3つの宗教、文化が共存することになりました。

メスキータでは、コルドバをレコンキスタしたフェルナンド3世の時代(1236年)にすでにカトリック信者のミサがおこなわれましたが、それぞれの宗教や文化を尊重した王の政策もあり、メスキータの元の建物を大きく改造するには至りませんでした。

スペインでは、かつてカトリックの教会として使っていた建物を、イスラム支配下になった後は、イスラム教徒に必要ない物は排除し、足りない物を追加して、メスキータとして再利用しました。その反対で、イスラムからレコンキスタで街を取り返したあと、今度はメスキータだった建物を、カトリックの教会として再利用するケースは多く、そのせいで建築様式がスペイン・イスラムの融合で、他の国にはないエキゾチックな姿?の教会が存在する理由でもあります。

≪スペイン以外の一例として≫

トルコのイスタンブールにある【アヤソフィア】は、もともとカトリックの大聖堂だった建物がその後イスラム教徒のメスキータとして使用されてきたものでこちらも有名ですね。

しかしその後時は流れて15世紀(1486年~1496年)、13世紀に初めてメスキータ内でミサが行われた場所に、かなり手を加えて本格的な礼拝堂を造る工事が行われました。(メスキータにもとからあった灯り取りの窓を利用する形)

天上や、ステンドグラスなど、それまでのメスキータとは違う いかにもヨーロッパ風の教会装飾が、この工事で施されました。

ヴィジャヴィシオサ礼拝堂(初めにつくったメインの礼拝堂)
Erinc Salor, CC BY-SA 2.0 Wikimedia Commons

Berthold Werner, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

その後、16世紀、スペインはレコンキスタも終わり、新大陸も手に入れ、世界の大帝国となり、その頃スペインの国王で神聖ローマ帝国の皇帝でもあったカルロス1世(=皇帝カール5世)の時代で、新しく大聖堂を建造する話が持ち上がります。

その結果、メスキータ内に約1000本ほどあった円柱のうち、中央の約150本を撤去しスペースを設け、そこに中央祭壇と聖歌隊の席などのカトリックの教会に必要な場所を造り、それに伴う装飾が壁や天井にも行われました。

メスキータ 大聖堂 中央祭壇(奥)と 聖歌隊席(手前

大聖堂の建設には約200年の年月がかかり、その間、ゴシック・ルネサンス・バロックなどの異なった様式が取り入れられています。

Zarateman, CC BY-SA 3.0 ES Wikimedia Commons
メスキータ 大聖堂 天井の装飾

下の写真は、聖歌隊席。18世紀に造られたもので、南米から取り寄せたマホガニー材が使用されました。

メスキータ 大聖堂 聖歌隊席
Jan Seifert, CC BY 2.0 Wikimedia Commons

Eric Titcombe, CC BY 2.0 Wikimedia Commons

Martinvl, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

これが現在コルドバの大聖堂と呼ばれるカトリックのミサや宗教行事が執り行われる場所、つまり世界最大規模のメスキータの真ん中にカトリックの大聖堂があるという事です。

下の写真を見ると、建物の屋根の中央に、教会部分の建物が飛び出しているのがよくわかります。
そして、ラテン十字の形になっているのもわかると思います。(教会は空から見ると十字架の形に設計されています)

メスキータ コルドバ
Toni Castillo Quero, CC BY-SA 2.0 Wikimedia Commons

スペインイスラム建築の最高峰のひとつでありながら、使用目的はカトリックの大聖堂。異文化の融合という一言では語りつくせない、本当にユニーク過ぎる建造物です。

メスキータの大聖堂の部分

見どころ

建物の大まかな概要をお話しましたが、他にもいくつか見どころを紹介します。

内部

中に入ると、円柱のヤシの木の森のようで、入った瞬間から圧倒されます

下の1枚目の写真はオリジナルの建物の部分で、イスラム勢力がこの地に侵入する前にあった西ゴート王国時代の建造物の柱の再利用なので、よく見ると柱の長さが微妙に違い、その調節のために柱の下に台座があったりなかったり。

Nikater, CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

また、西ゴート王国時代影響を受けていた、古代ギリシャの建築様式でもある柱頭の装飾(コリント様式)なども見る事ができます。

コリント様式の柱頭装飾

この部分には、かつての西ゴート時代のサン・ビセンテ教会の遺跡も地下で発掘され、見れるようになっています。

サン・ビセンテ教会の遺跡↓↓

サン・ビセンテ教会の遺跡
Elliott Brown from Birmingham
CC BY-SA 2.0 Wikimedia Commons

円柱の森はどんどん広がっていきます。

Timor Espallargas, CC BY-SA 2.5 Wikimedia Commons

円柱の上には、古代ローマの水道橋などでもみられる二重アーチのシステムが使われていて、天井までの高さを高くし、また重さを分散して天井を支えています。

円柱とアーチと天井 
Pikaluk from West Midlands, UK, CC BY 2.0 Wikimedia Commons

天上は、梁のうえに板を乗せた平天井で、これを支えるために厚い壁ではなく、柱の集合体が採用されました。

先に説明した通り、円柱は全部で1000本ほどありましたが、中央の大聖堂の建築スペースを確保するために、150本ほどが撤去されました。

円柱は、大理石、花崗岩、碧玉、アラバスター(ローマ時代の遺跡からの再利用)などが使われています。

もともとアーチの赤い色はレンガ、白は石灰岩が使用されていました。拡張工事が進むにつれて、石灰岩に色を塗って2色にした部分もあります。

キブラ+ミフラブ

キブラとは、メスキータのいちばん奥の、メッカの方向を示す壁、そこにある窪みがミフラブ、メスキータのいちばん大事な場所です。

メスキータの拡張工事と共に壁も作り直し、現在残っているこのキブラは2回目の拡張工事、ハカム2世の頃、コルドバの街の最盛期に造られたものです。

ミフラブの周りの豪華な装飾は、当時のビザンチン皇帝ニケフォロス2世フォカスの依頼で送られた職人達が作ったビザンチンモザイク

スペインで唯一見ることが出来る、当時のビザンチンモザイクの装飾です。

偶像崇拝が禁止されるイスラム教徒の装飾は、幾何学模様と植物など。

四角い枠の部分にはアラブ文字が装飾されていて、これは、クファ文字という古代アラビア文字。


Ingo Mehling, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

キブラの前のスペースは、マクスラ ここでは、身分の高い聖職者が祈りを捧げ、その声が反響してよく聞こえるようにマクスラの天井はドーム型になっています。

この辺りどこを見ても、物凄く緻密な繊細な装飾。当時のコルドバの経済力も想像することができます。

BigKuh, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

Arnoldius, CC BY-SA 4.0 Wikimedia Commons

キブラの場所は、下の図の水色(2回目の拡張工事)部分のつきあたりの壁の黒く囲まれた所。ちょっとくぼみがありますが、くぼんだ部分がミフラブです。

世界中のイスラム教徒は、必ずメッカのカーバ神殿の方角に祈りを捧げます。その方角を示す壁がキブラ、コルドバから見るとメッカは南東ですが、コルドバのメスキータのキブラは、ほぼ南になっています。

これは、キブラの方向に関する歴史的な意見の違いによるもので、一番初めにメスキータの建設を始めたアブド・アッラフマーンの時代、預言者ムハンマドの提唱した方向に沿ってキブラが造られ、それによると南向きになったようです。

中庭

メスキータ オレンジの中庭 
Eric Titcombe, CC BY 2.0Wikimedia Commons

拡張工事によって広がった庭のサイズは、現在130m x 50m。

オレンジの木がたくさん植えてあり、オレンジのパティオ(中庭)と呼ばれています。

中庭には、泉があり、かつてはイスラム教徒が礼拝のためにメスキータへ入る前、身体を清めるために使われていたものでした。

現在、建物の中庭に面した部分は、壁でふさがれていますが、メスキータとして使われていた頃は、この壁はなく、この中庭からもメッカの方向を示す壁(キブラ)に向かい信者は祈りを捧げていました。

中庭に面したふさがれた壁
el_maldito_pit, CC BY 2.0 Wikimedia Commons

現在のようにオレンジを植えたのはこの建物をカトリックの教会として使うようになって、中庭に面した壁がふさがれた後、内部の円柱の森の続きのイメージで、中庭をオレンジの木でいっぱいにしたといわれますが、メスキータの時代にも木が植えてあって、外で祈りを捧げる信者のための日陰をつくったり、またこの場所を学校代わりに使ったりもしていたようです。

ミナレット
Werner, CC BY-SA 3.0 wikimedia commons

 

この塔は、もともとはミナレット。【光塔】と訳されますが、【アザーン】という祈りの始まりの決まった言葉を発し、1日5回の祈りの時を告げるための塔です。カトリックの教会の鐘楼のようなものです。

もともとは、10世紀アブド・アラフマーン3世の時代に造られた塔でしたが、現在の物は16世紀後半に10世紀の古い塔を囲むような形で造られたものです。

上の写真には、鐘が設置されていますが、これはカトリックの教会がこの建物を使うようになった後に取り付けられた鐘楼。イスラム教では、人が塔に登って、声で祈りの時を告げていました。

この塔はコルドバで一番高い塔で、街のランドマークでした。

塔の上には、コルドバの守護聖人「聖ラファエル」の像。

外装

建物の外側の門や装飾も、9世紀のいちばん古い時代の物などが残っています。

まとめ

コルドバのメスキータは、建物が造られた時代背景を考えても、それだけでも十分世界に誇れる素晴らしい建物だったのが、歴史の流れで、メスキータの中にカトリックの大聖堂を造り、この大聖堂もスペインが大帝国だった時代に十分な資金と最高の技術をもって造られたもの。

どちらを取っても一流の最高の作品が、運命のいたずらで同居することになって、ますます異彩を放っているのです。

16世紀に大聖堂を造る計画が持ち上がった時、メスキータの歴史的・芸術的価値を理解するコルドバ市民の反対を受け、その決定は国王カルロス1世に委ねられました。

カルロス1世は、コルドバのメスキータを見たことがなかったので、建設の許可を出しました。

後に、カルロス1世が、メスキータを訪れた時、「こんな素晴らしいものだとは知らなかった。どこにでもある建物を造るために、世界に一つしかない物を破壊した」と嘆いたそうです。

ただ、そのおかげもあって、”メスキータと大聖堂の同居” という、これまた世界に二つとない建物になり、現在は、メスキータも含めてコルドバ歴史地区はユネスコの世界遺産になっています。

写真で見るより本物は100倍(!?)素晴らしいのでぜひぜひ行ってみて下さい。

ちょっと長くなってしまいました。最後まで読んでいただいて ありがとうございました!

※コルドバには他にもたくさん見どころがありますので、また別の機会に紹介しますね。