約500年前に描かれて今日まで、この絵の謎は解明されていません。
画家本人も詳しいコメントは残していないのです。
プラド美術館は、絵画、彫刻、調度品など約30,000以上作品を所蔵していますが、そのなかでも特に興味深い作品です。
まるで元祖「ウォーリーをさがせ!」のように、色んな物が描かれています。
絵の前に立った時にビックリしないように(?)見つけやすいいくつかの謎解きのポイントを紹介します。
作品が描かれたのは
作者であるヒエロニムス・ボス(1450-1516)の生涯と同じように、この作品が描かれた年代、また依頼主については、はっきりとした記録が残っていません。
おそらく1500~1505年頃に描かれたもので、依頼主は、ナッサウのエンゲルベルト2世もしくはその甥のヘンリー3世、ヘンリー3世の結婚式があった1503年に依頼されたものではないかというのが有力な説です。
絵は、オーク材のパネルの油彩画で、サイズは220cm x 389cm
使われたオーク材は年輪年代学によると1460~1464年頃切られたものだという事はわかっているので、その年代以降に描かれたのは間違いないようです。
この絵の経緯で唯一はっきりしているのは、1593年、スペイン国王フェリペ2世がこの絵を大変気に入り購入し、スペインのマドリードの郊外に建造したエル・エスコリアル修道院へ、その後スペイン市民戦争が終わった1939年にプラド美術館の所蔵となり現在に至ります。
三連祭壇画
この絵は、横に3枚の絵が並んだ形で描かれた三連祭壇画で、三面鏡のように開いたり閉じたりすることが出来ます。
三連で3枚ですが、実はこの絵にはもう1枚絵が隠れていて、通常は開いた状態の絵を閉じると、閉じた扉の裏側にもう1シーン描かれています。
創世記(天地創造)
6日間で神によって創造されたこの世界、初めは闇と地あり、そこに神が「光あれ」と光を造り、2日目には空がそして、3日目には地と海が区別され、地には植物と木が造られました。
ボスは、この絵の表紙にグリザイユ画法(灰色とか茶色のモノトーンの絵)で天地創造の3日目を描いています。
宇宙のなかに浮かび上がる地球。この絵が描かれた時代はまだ天動説の時代、地球の周りを太陽が回っていると思っていた時代の地球の姿です。
左上(見えますか?)
左上には、創造主である神が描かれています。
神が人間を造ったのは6日目。この表紙の3日目の世界には、まだ太陽も月も星も動物も、そして人類も存在していませんでした。
※プラド美術館では開いた形で展示されているので、その裏側に描かれている【天地創造】は正面からは見えません。ちょっとだけスペースがあって裏側も見ることが出来ますので、忘れずに裏側も見てくださいね。
正面左(エデンの園)
神は初めにアダムをそしてアダムの肋骨からイブを造りました。
そして神が創造したばかりのイブを祝福しアダムに紹介しています。この楽園の木の実はなんでも好きなように食べてもいいけれど、善悪の木の実だけは食べてはいけないと、禁止とともに選択の自由も与えられたことになりす。
アダムとイブは裸ですが、お互いに性的な欲情をいっさい持ち合わせていないような、中性的なイメージが伝わってきます。
アダムの後にあるのは生命の木(ここでは竜血樹)、当時まだ珍しい木でボスは実際に見たことはなかったもので、下の版画の木を参考にしたと言われています。
後方には、生命の泉と噴水。泉の真ん中のピンクの噴水の下の方は、丸く黒い穴が開いていて、その中には知恵の象徴であるフクロウが描かれています。
生命の泉の右側には、人の横顔のように見える岩があり、岩の上には善悪の木。その証拠に木にはイブをそそのかし神に禁じられた善悪の木の実を食べるように誘惑した蛇が絡みついています。
泉から這い上がろうとしている奇妙な生き物たちの姿もあります。
これは、1枚目のパネル(エデンの園)の中の左中央辺りで泉の水を飲んでいる白い頭に角の生えたユニコーンがいて、ユニコーンは悪い物を浄化する動物と言う意味があり、浄化された泉から、奇妙な怪しげな生き物たちが、蛇の絡みつく木のもとへと逃げていく様子です。
神によって創造され祝福されたアダムとイブの世界にも、すでに善からぬ者たちが存在していたのです。
サルバドール・ダリがのちに描いた【大自慰者】の中の下向きの横顔は、この岩がモデルです。
中央(快楽の園)
中央のパネルには、いったい何人の人が描かれているのでしょうか。
全て全裸の若者たち、子供と老人の姿はありません。
どの人も感情にあふれ、性的な欲情も生まれ、最初にみたエデンの園のアダムとイブの無機的な姿から一変してしまいました。
このシーンをどう解釈するかは、色んなとらえ方がありますが、神に背いたことで楽園から追放されたアダムとイブの子孫たちが、人生の一時を謳歌している姿なのかもしれません。
カトリックの教えの中で、傲慢、強欲、色欲、憤怒、暴食、嫉妬、怠惰の7つの感情や欲望が人間を罪に導く可能性があり、全ての罪の始まりであると諫めている「七つの大罪」、その中でも色欲、暴食、強欲、怠惰などを繰り返し繰り返し表現しています。
感情のままに生きる人間の罪が、この中央のパネルのメッセージになっているとの考え方が一般的です。
中央には、水の中に女たちが、その周りには実在の、また架空の想像上の動物に騎乗した男たちの姿。
本能のままに動物にまたがり、性的な欲望のために狩りに行く愚かな人間の強欲、色欲がここにあります。行進は、反時計回りに進んでいます。
人間と同等もしくはそれより大きくなった動物や植物を描くことで、宇宙の逆転、神の教えに反して逆の方向へ向かう、堕落の道を選んでしまった人類への警告です。
黒人の姿も描かれていて、黒人を受け入れることに抵抗のあった中世ヨーロッパの風習や、また神によって創造されたバラエティーに富んだすべての創造物を描くことで、神の偉大さを表しているようです。
イチゴだけではなく、ラズベリー、チェリー、ブドウなどの果実も多く描かれています。
イチゴやチェリーは虚栄心(見栄を張る、自分を大きく見せたい気持ちなど)の象徴であると同時に、性欲の象徴としてもとらえられます。
ブドウは、救いです。
生命の始まりでもある卵、知恵の象徴フクロウの姿も描かれています。フクロウは、時代によって場所によっては死の象徴ととらえる文化も存在しています。また、卵は暴食の意味もあります。
この絵のタイトルは現在は【快楽の園】ですが、もともとのオリジナルのタイトルについては不明で、何度も繰り返し描かれるイチゴ(虚栄心)のため、【虚栄心のイチゴとつかの間の快楽】といった名前で記録されていた時代もあったようです。
中央パネルの右下の2人↓↓
みんな全裸と言いましたが、この2人のうちの立っている男の方だけ実は服を着ています。女の方は果物らしきものを手にしていて、この2人はどうやらアダムとイブなんだそうです。よくよく見ると、もう1人誰かがこちらを見ています。アダムとイブの子孫にあたるノアの箱舟のノアだと説く研究者もいるようですが、実際は誰なんでしょうか。
禁断の実を初めに食べ、アダムにも勧めたのがイブ、後ろのアダムがイブを指さして、ここから罪が始まったと暗示しているようです。
そして後方にあるこの塔のような噴水、1枚目のパネルにあったピンクの噴水とよく似ていますが、もう中には知恵の象徴のフクロウはいません。1枚目のピンクの噴水より、色艶もあり断然華やかで、繫栄した世界に見えますが、よく見ると青い地球のような球体の部分にはひびがはいっていて、物事のはかなさを見る事ができます。
愚かな快楽に身を滅ぼしていく人々。
全体的にどこを見ても緻密な絵ですが、この辺り拡大してみていると、この想像力と表現力はいったいどこから来るものだったのだろうと、宇宙からの交信でもあったのではないかと思ってしまいます。
正面右(地獄)
最後は愚かな行為の結末の世界です。
背景には闇の中で光を放ちながら燃える街が描かれています。人々が一般的に持っている地獄と拷問の火のイメージです。ボスが幼い頃、故郷で街が焼ける火事を体験し、そのトラウマとも言われます。
中央右寄りにはこのシーン、氷の世界で、先程の火とこちらの氷で熱さと寒さの両極端の苦しみの様子です。
【木の男】作品のなかで誰よりも大きく描かれているこの木の男は、体の中をよく見るとカエル(?)の上に腰かけた3人がいます。その後ろには、樽からワインを出している給仕係の姿。飲酒(暴飲暴食)がいかに罪深いかを木の男がこちらに訴えています。それだけではなく、全ての堕落した者たちを見透かしたようなこの視線と、ひときは薄気味の悪いこの姿は、悪の体現なのでしょう。
ちなみに、この木の男の顔は、ボス自身だと言われています。
色んな楽器が描いてあるので【音楽地獄】とも呼ばれています。
ボスが地獄の世界に楽器を描いた理由は不明ですが、音楽は快楽であり、男女の愛の関係を象徴する物。本来ならば美しい音楽を奏でる手段のはずの楽器が、その全く逆の不快な地獄の拷問の道具として使われています。善か悪かの紙一重の世界が表裏一体で存在しているという事なのでしょうか。
緑色のマンドリンのような楽器(リュート)の下には、楽譜と、楽譜が描かれたお尻がみえています。この楽譜を解読して、500年前のメロディーを再現した人がいます。
オクラホマ・クリスチャン大学でコンピューターサイエンスを専攻していたアメリアさんで、たまたま絵の中でこの楽譜の部分を見つけ、「冗談でメロディーを書き写してみようと思いました」と語っています。
それがこちら 興味がある方はどうぞ。地獄のメロディーと言うイメージはなく、幻想的(?)です。
左下には、トランプや、サイコロを頭に乗せた女の姿、賭博に対する戒めのシーンで、賭け事に興じて我を忘れてしまった人たちが捕まって処刑されています。ひっくり返ったテーブルの後では自分の行為に恥じたのか男が顔を手で覆っていますが、時すでに遅しで、背後には不気味な骸骨のような死の影が張り付いています。サイコロを乗せた女の横には、人よりも大きなウサギがまるで捕まえた獲物を持ち帰るように人を逆さまにぶら下げています。
右下には、修道院の女性の姿らしき豚が、男に言い寄っています。
この男の足の上にある紙が中世ヨーロッパで聖職者が考え出した免罪符(これを買えば今までの罪は免罪、天国へ行くための通行手形のようなもの)だろうという説や、この修道院の服装が、ある托鉢修道会の服に似ていることから、托鉢やその他の手段で集まる教会の資金運用への批判的な意見と考えられます。豚の修道女は、男に資金調達のための書類にサインをさせようとしていて、豚の手には細長いペンが、その前にはインクの入った壺のようなものがぶらさがっているという説もあります。
聖職者だけではなく、裁判官や公証人といった立場を悪用して私欲を満たす者への批判とも考えられます。
今度は、作品の中でいちばん大きく描かれた動物(鳥のような人?)が人を頭から飲み込んでいて、そのまま排泄している様子です。こちらも豚の修道女と同じく、堕落した聖職者や権力者となり果てた人たちの最期の姿なのでしょう。
まとめ
創造主である神が3日目に創った世界の扉を開けると、中には、≪楽園≫と偽物の楽園ともいえる≪快楽の園≫があり、そして、地上と≪地獄≫の架け橋になるのが、様々な快楽によって生まれる罪なのです。
宗教画でありながら、宗教という枠では収まり切れない、もっとグローバルなメッセージをこの絵は訴えかけているようです。
宗教的、道徳的なメッセージと見る事も出来ますが、その既成概念も超越した、もしかしたら、とても楽しい作者の空想の世界、ファンタジー宗教画(?)という全く新しいジャンルの絵画だったのかもしれませんね。
なぜか、昔の人達は、まじめで冗談など言わない寡黙な人達だったと、勝手に思い込んでいるのは私(達)だけで、よく考えるとそんなことはないはずで、中には突拍子もない奇想天外な芸術家がいてもおかしくありません。
そして、カトリック大国スペインの国王で、カトリックの教えを全面的に擁護し、本人も敬虔な信者であったフェリペ2世が、芸術的にこの作品を気に入って、わざわざ王が晩年を過ごしたエル・エスコリアル修道院に所蔵していたという事実からみても、当時の人達もこの作品を見て楽しむ感覚が当然あったんだという事が想像されます。
絵画史上・・・というのは他の絵でもよく使われる表現ですが、絵画史上こんなにインパクトのある絵はないのかもしれません。
作品が描かれた16世の初め頃はもちろんのことながら、約500年たった今もその斬新な作風は見る人に衝撃を与え続けています。
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